情報の認知に関してもJは何かと問題がある。Jは知覚(インプット)より判断(アウトプット)が先行しており、情報を取り入れてからそれの正しさを吟味・精査するのではなく、正しいと分かっている情報のみを情報として取り入れる傾向がある。ここにおける判断基準がTe・Feという訳である。内向判断、即ちTi・Fiがない、或いはあっても弱いので、自分自身による判断が効かないのである。この認知過程はバイアス混入が避けられない。インプットする情報にフィルタリングがかかっており、取りこぼしが生じているからだ。こういったJの認知スタイルが、決めつけ、偏見、先入観というものを生む。
上記は一つ前の記事「私の内向直観セレクション」内の有料記事部分の抜粋である。ここでは判断型のJの認知方略の問題点について色々と述べた。MBTIを知って8年ほど経つが、これまでの学習結果の一つである。
引用部分は、反省と訓戒と投影の意味があった。
「反省」の主体は「我」であり、これは自身が判断型でありながら判断型を批判していることで説明が付けられるだろう。要は自己批判なのだが、私はこれまでの人生を振り返って、規模を問わず多くの失敗の原因をこの判断型であることに起因させている。仕事上での失敗もあれば、黒歴史的な恥の失敗もある。そういった自己の歴史を顧みて、もう二度とこんな過ちは起こすまい、という意味がまず一つ。
「訓戒」の主体は「他」である。お前らもこんな風になるなよ、気を付けろよ、という読者に対してのメッセージである。この発信の動機は自分の啓蒙思想に由来する。「啓蒙」だなんて偉そうというか、誰がお前の教えなんて必要としてんねん、というツッコミも当然あるのだが、この精神は確かに私自身を駆動させるものとして自己の中に存在しているので、もうそういう「性」なのだと受容するしかない。ただまだはっきりと、胸を張って「私は啓蒙主義者です」と言えるだけの器量を獲得していない。ここは今後の自分の課題としたいところである。とにかく、他者への戒めという点が二つ。
そして投影であるが、これの主体は「我」と「他」である。この主語の重複性を語る前に、まずこの心理機構の原典を示さなければならない。まず一つはフロイトが提唱した防衛機制における投影、もう一つは、ユングが提唱した元型の中の一つのシャドウである。なぜ二つ示すかと言うと、メカニズムの大枠の理解としてはどちらも同じだからだ。この投影という言葉は「自己投影」と若干の変化が加えられて、「感情移入」のニュアンスで使用されていることがある。例えば、ある漫画のキャラクターに対して「これは作者の自己投影である」という評価とか、自分の分身ともいえるアバターになりきっている人に「彼はキャラクターに自己投影している」という評価などである。しかし感情移入という意味で投影を使用するのは理解として正確ではない。ある決定的な心の動きが欠落している。この防衛機制は非常に奥深く、かつ厄介で、攻防一体となっているところが他の防衛機制とは異なっている。正確に説明するには一つの記事を用意したいくらいなので詳細は割愛するが、結論から言えば私は判断型の性質を批判することで精神的に楽になっていたのである。投影の機序を理解すれば主語を二つにしたのも理解できると思われる。この投影というのが三つ目。
冒頭の引用で示した通り、Jは知覚より判断が先行しており、故に判断が早いという性質がある。この「判断」というのは「結論」という表現に置き換えてもいい。Jというのは何かと結論を急ぎがちなのだ。また発信力に長けている一方で傾聴力が弱い。これは過去に行ったとあるユーザー達との対話の結果、充分納得した上での自分の認識なのだが、諸事情がありその内容を直接紹介することはできない。しかし、昔Xのアカウントで行っていた質問箱でちょうど適当な質問をもらったことがあるので、そちらを紹介しよう。

なかなか手厳しい意見だが、どれも自分の性質として受け入れていたし、むしろコンセンサス※が取れていることに嬉しさを感じたくらいである。「人それぞれ」には反駁したいところがあるが、本稿のテーマと離れてしまうので割愛する。とにかく、「判断型のJは判断が早い」ということを前提として以降論を展開していくことにする。
※類型論を扱う上で非常に重要と思われる。
ところで、今のところ「判断が早い」という性質にはネガティブな評価しか行っていないが、フラットな視点に立てばポジティブな評価も可能だろう。ここで一旦双方の立場になってそれぞれの評価を整理してみたい。

「判断が早い」のポジティブ評
「判断が早い」でWeb上を検索してみると、判断の早さが評価されるシチュエーションというのは大半の場合ビジネスシーンであるようだ。なるほど即決即断即断即決、スピード感をもってプロジェクトをドンドン進行させる様はいかにもJ的で、部下を牽引する頼れるリーダー、メールの返事も早くて助かります、迅速な対応ありがとうございますみたいな感じだろうか。一通り調べて、この
判断が早い = 仕事ができる(有能である)
という図式は一般論として成立しているという感触を得た。判断の早さを「頭の回転の早さ」に紐づけているケースもあるようだ。他、判断の早さを称揚する評価としては
- 「判断が早い人」が選ばれる
- 「考える時間」を自分の中に持っている
- 「やめる」判断が早いほど成長に繋がる
- 感情に流されず、事実に基づいて考える
- 若くして管理職になった人には「判断が早い」ということが共通している
などが見つけられた。なんか本当にビジネス絡みの記事しかヒットしない。正味、それ判断の早さとなにも関係なくない?という評価もチラホラあるが…

「判断が早い」のネガティブ評
早計、時期尚早、早とちり、性急、拙速に過ぎる、見切り発車などなど、判断の早さへの訓戒の語は様々あるわけだが、Webで色々調べた結果、ナレッジコミュニティである「Yahoo!知恵袋」において、自分が考えている事をほぼほぼ代弁している質問を見つけてしまった。ネガティブ評のまとめとしてはこちらの引用でもう十分だろう。
一般的に「判断が早い」と言うのは良い意味で使われる事が多い褒め言葉だと思うのですが、知恵袋を見ていると、
すぐさま回答を寄せる人ほど(レスポンスの「極めて」早い方ほど)その内容は質問文を見落とした意見や質問者の心情に沿えていない等の短絡的な回答がかなり多い傾向だと思います。
仕事の場面でも、即断即決型の、ある意味リーダー性に長けた「極めて」判断の早いタイプの上司の判断にはウッカリと言うか、長期的に冷静に様々な人への影響や結果まで鑑みた視点で見た時に短絡的と思わざるを得ない誤判断が多いように認識しています。
やはり即決型の人の中でも極めてスピードの早い一部の人というのは総じて長期的な視野に欠ける結論を出しがちだと思うのですが、皆さん、ご経験などからどのように感じていますか?
私の経験から申しますと、早く結果を出したものほど、「もっとちゃんと考えておけばよかった。」と後悔する傾向にあると思います。
逆に長時間かけて出した結論は、あれだけ時間をかけたのだから、よくない方向に進んだとしても、後悔したら無駄になると思い込んでしまうので結果よしとしてしまうところはあります。
知恵袋でよく一番最初についた回答は、中身のないような短文がついていることが多いのですが、それは一番を狙った人がとりあえず何か書いとけって感じで回答していることが多いと思います。
やはり、即決型は動物的な人が多いように思います。熟考以前に思考のスピード自体が遅い人も困りものですが、反射的な人は総じて感情的で了見のせまい決断が目立ちがちですね。個人的にはアホだと判断していますが、なぜか同じアホから判断力のあるリーダーと誤解されている事が多いのが世間の現状です。まぁ大企業にはあまりいないのでいいのですが、地方や一般社会にはたまにいて、たいてい勢力を奮っているので不思議ですね。
これまたかなり辛辣な意見だが、大体は私も同じようなことを考えている(特に太字部分)。他、判断が早い事に批判的な意見を呈しているブログを見つけたので、いくつか紹介しておこう。
「判断の早さ」への評価を一旦リセットする試みで始めたリサーチだったが、ポジティブ評の多くは画一的、または思考停止的な印象を受けた。また一般論から脱却しきれていないので面白味にも欠ける。翻ってネガティブ評には、多くの人が是としている価値観、考え方に対するクリティカルな目線と自律性があり、元の学習内容「判断の早さへの批判的態度」を更に強化するような結果となってしまった。自分の調査内容がその学習内容による選択バイアスにかかっている可能性は否定できないものの、強い戒めとして自己を束縛している事実は変わらない。判断が早いという気質、これは自分にとって重くのしかかっている課題なのである。性格など変えることはできないのだから。
という風にまあ長年そんな風に考えてきたのだけども、ここ数年の間で、大学での勉強の成果かは定かではないが、この「判断の早さ」を長所として活かす方法はないだろうか?と前向きに考える時間が生じることがあった。性格は変えることはできないというなら、受容するしかない。そして受容した上で、それをストレングスとして捉えることができる方法論を提示するのが、恐らく人一倍判断型であることに疑問を抱いてきた自分にできることじゃないんだろうか?そんなことを考えているのは自分だけだろうから、多分需要などないだろう。それでも、一人の人間の超克の意志を、この世界に投げておいていたいという想いがある。少しだけでいいから耳を傾けてほしい。
ここでもう一度、冒頭での引用部分を紹介しよう。
Jは知覚(インプット)より判断(アウトプット)が先行しており、情報を取り入れてからそれの正しさを吟味・精査するのではなく、正しいと分かっている情報のみを情報として取り入れる傾向がある。
この認知過程は言い換えると、まず「正しさ」が宿る結論を生み出せることを保証する、何某かの理論体系が既に学習済みであり、それに基づいて(目の前の認知対象の精査をスキップして)判断している、ということである。ここで採用している理論体系というのが重要な部分だ。この前提としている理論に瑕疵が存在する場合、それを基に出力した結論にも瑕疵が存在するのは必然だ。土台から間違っているからだ。
しかし、もし仮に、その採用している理論が、一つの例外もなく常に真実真正の真理を弾き出せるようなものであった場合、Jの判断の早さがむしろ有効に働くのではないだろうか?ということを私は考えた。あくまで理屈の上での話だが、この場合なら確からしい正しさが保証された上で先手を打つことができるようになるだろう。
そしてその「一つの例外もなく常に真実真正の真理を弾き出せる理論というのは一体何なんだ?」というのが最大の問題になる。ここは慎重に考えなければならない。ここでの選択ミスは未来での敗北を意味するし、判断型の発信力の高さが悪い方へ作用する。順当に考えれば自然科学や数学の理論を採用するのが妥当性が高いだろう。それらの分野に親和性があるならそれでもいいと思うが、生憎私は双方の分野とも知識の吸収に難を抱える人間である。また、数学の方は多分大丈夫だと思うが、科学に関してはカール・ポパーが提唱した「反証可能性」が示す通り、誤りを修正し続ける分野であるので、理論として採用したとしても常にそれが絶対的な正しさを保証するとは限らず、認識のアップデートが必要となる。
理数系の才覚には恵まれなかった私ではあるが、論理学においては多少の見込みはあったようだ。実際論理的思考が必要とされる情報処理の仕事でなんとか生き長らえている。ロジックを追求する学問上で、前述した常に誤りなく真理を導くことができる理論を見つけ、習得することができた。僭越ながら以下にそれを紹介することにしたい。理屈のカラクリが分かればそう難しい概念ではない。
今目の前に、一人の座頭市がいるとしよう。座頭市は仕込み杖の刃を露わにさせ、以下の命題を宣言した。
「寄らば斬る」

臨戦態勢の構えを取る座頭市と呼応するかのように、焔に照らされた人間がそこにもう一人。侍である。侍は座頭市の先ほどの宣言を耳に入れ、理解している。

侍は以下のように思った。
くほほ。あの座頭市さん「寄らば斬る」だなんて言ってしもて。おっとろしいなあ。剣呑だなあ。寄らば斬るということは、寄らなければ斬られないってことなんじゃろ。古来から君子危うきに近寄らず、と言います。私は君子、そう賢い人。立派な人。私も一応侍名乗っているが、バトルマニアでもなし、無益な殺生は好まない。まあ本当は侍はファッションなんだけどね。それでもやったら私が勝つけどね。まあどうでもいいけど。ちょうどいいところにキャンプファイアがあるから、これで暖を取りつつ珈琲でもしばいたろかな、ほほほ(放屁)。
侍は焔の前でアホみたいな表情のままチルっている。したところ、先ほどまで構えの状態で地蔵の様に硬直していた座頭市が、しゅんっ、と風のような速さで侍の懐に忍び込み、仕込み杖を完全に抜刀、雷のような斬撃を侍に放った。侍の血潮が炎で彩られた闇夜の宙に舞う。意識を失って倒れた侍はもう砂浜に打ち棄てられた流木と分別が付かない、物言わぬ存在となった。R.I.P.


座頭市は「寄らば斬る」と宣言したが、実際は侍に自ら寄りに行って斬りかかった。侍は座頭市の宣言から「寄らなければ安心」と判断したが、結局寄りかかってきた座頭市に斬られ、命を落としてしまった。
この状況、どう判断したらいいだろうか。座頭市が言行不一致をしでかしたんだろうか。それとも侍の思考に穴があったのだろうか。
結論から言うと座頭市は何も誤りを犯してはいない。誤りを犯したのは侍の方である。侍の推論は誤りを含んだものであったため、敗北するに至ったのである。
それでは、侍が犯した誤った推論とは何だったのか?
もう一度、座頭市の命題に対する侍の思考を引用してみよう。
くほほ。あの座頭市さん「寄らば斬る」だなんて言ってしもて。おっとろしいなあ。剣呑だなあ。寄らば斬るということは、寄らなければ斬られないってことなんじゃろ。古来から君子危うきに近寄らず、と言います。私は君子、そう賢い人。立派な人。私も一応侍名乗っているが、バトルマニアでもなし、無益な殺生は好まない。まあ本当は侍はファッションなんだけどね。それでもやったら私が勝つけどね。まあどうでもいいけど。ちょうどいいところにキャンプファイアがあるから、これで暖を取りつつ珈琲でもしばいたろかな、ほほほ(放屁)。
赤字で示した部分が誤っている推論だ。ここで座頭市が宣言した命題を確認してみよう。
寄らば斬る
この命題に対し、侍は「寄らなければ斬られない」という判断をしたのだ。一体この推論の何が間違いだというのか。それは、座頭市が宣言したのは、「寄るのであれば、斬る」という、寄った場合のシチュエーションにのみ言及しているのであり、寄らなかった場合のシチュエーションに対しては何も言っていない。「寄らなければ○○」という宣言は一切行っていないのである。ところが侍は「寄らなければ斬られない」と、座頭市が宣言していないことを汲み取ったのである。座頭市はそのようなことを言っていないので、寄っていない状態から自ら斬りにかかっていっても矛盾は生じないのである。
ここで記号表現を使用して少し抽象的に論理を展開してみよう。「寄る」ことを「A」、「斬る」ことを「B」に置き換えると、座頭市の命題は以下の様に示すことができる。
A → B
「→」は「仮言」と呼び、「ならば」を意味する。つまり上記命題を日本語に直すと、「寄るのであれば斬る」と翻訳できる。また、仮言の左側の記号を「前件」、右側の記号を「後件」と呼ぶ。
翻って、侍が行った推論を同様に記号で表現すると、以下になる。
¬A → ¬B
「¬」は「否定」を意味し、「¬A」は「寄らない」、「¬B」は「斬らない(斬られない)」を意味する。つまりこの命題は「寄らなければ斬られない」と翻訳でき、元の侍の推論と一致する。既に述べた通り、侍が行った推論は誤っている。これは「前件を否定することで後件の否定を導く」という形を取っている。この論理形式を前件否定の誤謬と呼ぶ。侍の敗因は前件否定の誤謬にあった。
もう一つ誤った論理形式を紹介する。今度は記号での表現を先に持ってきてみよう。
B → A
見て分かる通りこれは前件と後件を入れ替えた形になっている。これを翻訳するとどうなるか。「斬るならば寄る」では日本語としておかしくなるので、倒れている侍を見て「斬られたのならば(座頭市に)寄った」と解釈するのが妥当だろう。この推論はこの座頭市と侍のシチュエーションにおいては正解だが、普遍的に通用する推論ではない。これもまた誤りを含んだ思考形態なのである。
この命題では分かりにくいので別のものを用意しよう。
Tならば論理的思考力が優れている
「T」というのはMBTIにおける思考機能が優位なタイプを示す。ここでは実際にTが論理的思考力が優れているかどうかは不問とする。また、論理的思考力のスコアの測定方法も不問とする。ここではあくまで上記の命題の論理的な構造にのみ着目し、真実性蓋然性は問題にしない。
この命題に対し、先ほどの前件と後件を入れ替える変形を施した 場合、以下のような命題になる。
論理的思考力が優れているのであればTである
しかしこの推論は誤りだ。なぜなら論理的思考力が優れているFが存在する可能性があるからだ。元の命題で「Fならば論理的思考力は優れていない」と宣言していない限り、論理的思考力が優れているFの存在が許される。だから論理的思考力が優れているからといってTだという判断は妥当ではないのだ。この論理形式は後件肯定の誤謬と呼ばれる。
また「Tならば論理的思考力が優れている」という命題から、「ならFは論理的思考が苦手であると言いたいのか」と反論するのも間違いだ。そう言いたくなる気持ちは分かる。何故なら過去に自分もそのような過ちを犯したことがあるからだ。しかし元の命題は「Tであった場合」に対してのみの言及であり、「Fであった場合」については一言も宣言していないのである。冷静になるべし。
以上二つの誤謬の形式を取り上げたが、一つだけ妥当な論理の変形がある。それは以下のようなものだ。
¬B → ¬A
前件と後件を入れ替え、かつ双方を否定した形である。この形式を「寄らば斬る」に適用させた場合、
斬られていないなら寄っていない
となる。この推論は正しい。斬られていない人を見て、あの人は座頭市に寄らなかった、と判断するのは何も誤っていない。これは対偶と呼ばれる論理形式である。
まとめると、命題
A → B
から変形できる論理形式で妥当なものは
¬B → ¬A
のみであり、「¬A → ¬B」も「B → A」は誤りであるという事である。以上ここで取り上げた、広大な論理学の中の極一部の教えは「検査機構」として自己の内部に鎮座しており、客体が多少複雑なロジックを組んでいた場合、それを即座にこの検査機構に投げ込み、誤りがないかどうかチェックしている。また詭弁を見破る術としても活用することができるだろう。ちなみに私は詭弁は暴力よりも悪質な行為だと思っている。
先人たちの思考の結晶が積み重なっている論理学の教えに誤りがないことは確かだが、私が本稿で示した「Jの判断の早さを活かす術」の正誤については、ただ私一人が言っているだけの状態であるので、まだ仮説の段階に留めておきたい。これがどちらに傾くかは今後の私の在り方次第になると思う。
最後に「ウェイソンの選択カード問題」というものを紹介にして終わりにしたい。提示された4枚のカードは「片面が母音であれば、その裏面の数字は偶数である」というルールに則っている。そしてこのルールが本当に成立しているかを調べるには、どのカードをめくる必要があるか?という問題だ。すべてのカードをめくる必要はない。先に言っておくとめくるカードは2枚で十分だ。1971年の研究では、128人にテストしたところ正答率は僅か約4%だったそうだが、本稿を最初からここまで読んでいるのであれば正解に辿り着くことはできるだろう。多分……

本稿では「前提としている理論に瑕疵が存在する場合、それを基に出力した結論にも瑕疵が存在するのは必然」と述べた。このブログはMBTIのフレームワークを前提とした存在である。無論その前提部分の蓋然性を疑うことも可能だが、それを行うとブログそのものが解体しかねないので、これだけは特例とし、何も考えないことにした。
また、本文中の一部の表現においては、敬愛している作家の町田康氏の文体を拝借した。


コメントを残す