MBTIから失われたユング心理学の回復を目指すブログ

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  • ブログの名前を変更しました

    こんにちは、rememberです。ブログを開設したのが2025年の4月なので、約1年続けたことになります。SNS上での空前の性格診断ブームを背景にしたMBTIの大衆化への憂いと嘆きから始まった当ブログですが、1年経った今、状況は大して変わってません。インフルエンサーの焼き直しの考察が跋扈しているのは相変わらずで、特に恋愛を絡めた相性論などはあっという間に拡散されます。TF論争なども痴話喧嘩の話に接続しやすく火種になりやすいです。青年~成人期にかけてはパートナー獲得は喫緊の課題なので致し方ないのですが、ライト~スーパーライト層でのMBTIの取り扱い方は「MBTI without Jung」であり、ユング発祥の分析心理学の見地が忘却されています。MBTIはやりようによっては深海にまでたどり着ける自己洞察が可能なんですが、水圧で潰されそうな自己解体をしている者が見ている光景と、浅瀬で遊んでいる層が見ている景色はあまりにも落差があり、この全体図を俯瞰して描くのは容易ではありません。四半世紀ほど前に「真昼間にひっつきまくった男女の生殖器官はもういい加減どうこうもならん」と歌っていたENTP向井秀徳を思い出します。

    自分としては一刻も早くこのブームが終焉してほしいと願うばかりです。「終焉のシナリオ」として考えられるのは、定番の大喜利やあるあるネタなどの投稿が限界まで加速し、あらゆるエンタメ要素が「擦られた」飽和状態に達して、「もう飽きた」「まだやってんの?」という空気が形成される、というものでしょうか。ライト層はMBTIが必要だからやっているのではなくブームになっているからやっているのであって、冷めた空気になれば去っていくでしょう。「Fと名乗っていた方が優しいと思われる」というペルソナ運用がまかり通り過ぎて、この4文字のアルファベット表記が形骸化する、なんてこともあるかも知れません。批判が根付くことも重要だと思います。MBTIとよく並置されるものに、かつて一大ブームを巻き起こした血液型性格診断がありますが、科学的見地からの批判が周知されてブームは下火になりました。MBTIもそのような道を辿ることも考えられますが、どうでしょうか。血液型診断は生物学に結び付く「血液」が起点となっていたのでまだ科学のメスが入れられる余地がありましたが、MBTIはそれがありません。心理学発祥なので学術的ではありますが、再現性の危機が問題になりやすい分野でもあり、非科学寄りの一面があることは否めません(ユングやフロイトなら尚更です)。あと血液型診断はマスメディアが一方的に発信しているものでしたが、SNS全盛期に興隆しているMBTIは(科学リテラシーが不足した)市井の人が発信しているという違いもあります。発信者同士の交流も盛んです。科学リテラシーの欠如は批判的思考の欠如に繋がり、エコーチェンバーやフィルターバブルはますます加速の一途を辿るでしょう。そう考えるとブーム終焉の兆しが一向に見えてこないような気がします。

    「擦られネタ」の一例

    けれども何事もトレンドや時流というものはあるものです。心理学の知見は何かと自己啓発やビジネス書に流用されがちですが、例えば2026年においてマズローの五段階欲求説などを取り上げるのは今更感があるでしょう。インターネットスラング・ミームも同様で、マスメディアが作った流行に踊らされていることに無自覚なミーハーな女性への蔑称「スイーツ(笑)」というものがゼロ年代で流行りましたが、今や完全に死語となっています。同年代では「ゲーム脳」なるものも台頭しベストセラーになりましたが、諸学者の批判が根付いた今では疑似科学として認知され、誰も話題にしていません。1999年に開設されネットの一大文化を築き上げた2ちゃんねるもとうとう閉鎖するようです。そこで生まれた独自の言語文化も廃れていく運命にあるでしょう。これらの栄枯盛衰のサイクルのスパンを考えると、何となくですが2030年代以降にならないとブームは沈静化しないような予感があります。まあこういった未来の予測は大抵の場合スカッと外れるものなので、この辺で考えるのをやめます。

    画像
    さようなら、2ちゃんねる……

    それはさておき、この記事の内容はタイトルの通りです。今まで「The Typing For Existent Youths」というブログ名でやってきたのですが、いまいちパシッとしないなぁとはずっと思っていました。「Youths」は敬愛しているバンド「eastern youth」からあやかっていて、単語自体は気に入っていたのですが、長いタイトルで略称も思いつかないので、もっとキャッチーなものはないものだろうかと考えていました。

    そんな最中に、ある日Xで投稿した自分のポストに東洋という単語が出現し、自分の言葉に自分でハッとする感覚がありました。

    思えば自分はユング心理学から入った後にMBTIを知ったのでした。ユングは人格を発展させる上では、劣等機能を意識化することが欠かせない、という考えがあったように思います(個性化の過程)。また、自分が生きられなかった半面をシャドウと呼ぶのですが、このシャドウを自分のものとして受け入れることも重要視していました(投影の引き戻し)。ユングは東洋思想にも傾倒していたのですが、この対となる二つのものを統合させようとする視座は、正に東洋の陰陽一体の哲学の影響下にあるように思えます。

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    陰陽太極図

    ※非常に苦しい作業です。

    この考え方は自分としては「わざわざ言うまでもないこと」というくらいに、感覚的なところまで落とし込んでいたのですが(故に今まで言葉にできていなかったのですが)、いまやMBTIへの入り口はネットの大海の至る所にあり、ユングを介さずにMBTIや心理機能に入門する機会の方がずっと多いような気がします。そう考えると、ライト層には属さない、むしろライト層を批判しているそこそこ真剣にやっている人たちでさえ、このユングの思想を知らないままにMBTIに触れているのかも知れません。

    要は熱心に取り組んでいる人でも「MBTI without Jung」になっているという事で、これはちょっと由々しき事態というか、盲点だったなぁと思います。なぜかと言うと、この東洋的な合一の観点はある一つの倫理としても機能すると思うからです。タイプや心理機能の優劣を免罪符とする誤った活用法というのはある訳ですが、それもこの東洋的倫理の欠如故の発想のようにも思います。対となるものと一体化する意識があれば、もっと内省的な態度が獲得できるのではないでしょうか。そしてそれこそが本来的な自己を取り戻すことに必要なプロセスなのだと私は考えます(ユングの考えは「三つ子の魂百まで」に着目する原因論です)。

    ※「外向直観が優位だから○○が続かないのは仕方ないよね」など。

    西洋の近代科学の究極的な目的は「対象をコントロール」することであり、それは数理的な正しさはあるものの「強制介入」のニュアンスがあります。それに対し東洋的な在り方というのは、対象を無理にコントロールせず、あるがままの状態を受け入れて和合を目指すというものです。明確な答えがない状況下で手探りで真理を探究していくアナログ感があり、この感覚はMBTIのタイピングにも非常に親和性が高いと思います。タイプ論というのも概念的には陰陽五行説や風水といったものに近いのではないでしょうか(なので、科学的見地からの批判はブームの沈静化には必要かもしれませんが、本質的には筋違いではないかと思います)。

    以上の事から、この「東洋」という概念を当ブログの「錨の下ろし先」として再設定し、理念を以下のように改めます。

    1. 東洋の陰陽一体の思想を基底とし、対となる機能への合一を図ること
    2. 実在する人間をタイピング対象とすること。しかし、タイピング内容が青年期の課題解決に十分寄与できるものであれば、非実在青年でもタイピング可とする
    3. タイピングを人間関係攻略のためのペルソナ形成に資することなく、青年期の課題(自分は何者であるのか)解決に向けて活用すること。すでに課題が解決している者は、課題を抱えている者の解決の手助けとなるようにMBTIを活用すること

    そして、これらの理念から当ブログのタイトルを

    に改めることにしました。理念は「はじめに」で述べたものに東洋思想をプラスしただけで、基本的なスタンスは変わってません。まあでも、心理機能というフレームワークにおいてこの陰陽一体の思想を実践するのは、一般ウケはしないでしょうね。なぜなら劣等機能と向き合うのは超克的求道的な行いであり、修行のような過酷さがあるから。自分の経験則でしかないですけど、自己解体は勇気がいる作業です。「統合」「合一」などと述べましたが、おそらくその前段階で「対決」を経ると思います。フロイトもユングも精神分析は危険と看做していたフシがあるのですが、言わんとすることは何となく分かります。


    あと、先に取り上げた自分のXのポストでMBTIによく似ているソシオニクスについて少し触れています。MBTIの心理機能に該当する概念をソシオニクスでは情報要素と呼ぶらしいのですが、どうもこの情報要素は機能の対極性が存在しないようです。同じ記号表現(TeとかNiとか)を使用しているのですが意味が微妙に違っていて、ペア設定ができないんですね。つまりソシオニクスだと陰陽一体の思想が適用できない。あまり周知されていない知見だと思うんですが、これは理論運用の方向性の違いを決定付ける重要な部分だと思います。MBTIはユング心理学を継承している以上、「個性化の過程」、広義的に捉えれば自己実現・自己創造を目的としている理論と看做すことができますが、心理機能の意味を変更し、ユングは提唱していなかった相性論、果てはフロイトの自我、超自我、イドまでをも取り入れたソシオニクスは、思想的な背景が不透明なものになっている。まあここは私のリサーチ不足かも知れません。何か意見がありましたらコメント頂けると助かります。

    それと、ソシオニクスは「ロシア(旧ソビエト)が支配しやすい国民性を育むための政治的利用ツール」であるという面白い指摘をしているブログが存在するので、当記事の末尾に埋め込んでおきます。是非ご一読ください。私もソシオニクスには言いたいことがあるので、批判の記事は年内にでも仕上げようと思います。

    以前の記事では「このブログの存在の周知は控えてほしい」と格好つけたことを言っていましたが、今となってはもっと多くの人に読んでほしいというのが正直な気持ちです。少しでも面白いと思ったらSNSでシェアして頂けると幸いです。自分にとってMBTIは聖域のようなものだったのですが、現状の扱われ方には本当に辟易していて、よく壊してくれたな、という激情に駆られることもあります。けれどもそういった感情はなるべく抑え、この類型論で感得した自分の意味経験、そして奥深さを伝えていければいいなと思っています。よろしくお願いします。

  • Jの「判断の早さ」を活かすには…

    Jの「判断の早さ」を活かすには…

    情報の認知に関してもJは何かと問題がある。Jは知覚(インプット)より判断(アウトプット)が先行しており、情報を取り入れてからそれの正しさを吟味・精査するのではなく、正しいと分かっている情報のみを情報として取り入れる傾向がある。ここにおける判断基準がTe・Feという訳である。内向判断、即ちTi・Fiがない、或いはあっても弱いので、自分自身による判断が効かないのである。この認知過程はバイアス混入が避けられない。インプットする情報にフィルタリングがかかっており、取りこぼしが生じているからだ。こういったJの認知スタイルが、決めつけ、偏見、先入観というものを生む。

    上記は一つ前の記事「私の内向直観セレクション」内の有料記事部分の抜粋である。ここでは判断型のJの認知方略の問題点について色々と述べた。MBTIを知って8年ほど経つが、これまでの学習結果の一つである。

    引用部分は、反省と訓戒と投影の意味があった。

    「反省」の主体は「我」であり、これは自身が判断型でありながら判断型を批判していることで説明が付けられるだろう。要は自己批判なのだが、私はこれまでの人生を振り返って、規模を問わず多くの失敗の原因をこの判断型であることに起因させている。仕事上での失敗もあれば、黒歴史的な恥の失敗もある。そういった自己の歴史を顧みて、もう二度とこんな過ちは起こすまい、という意味がまず一つ。

    「訓戒」の主体は「他」である。お前らもこんな風になるなよ、気を付けろよ、という読者に対してのメッセージである。この発信の動機は自分の啓蒙思想に由来する。「啓蒙」だなんて偉そうというか、誰がお前の教えなんて必要としてんねん、というツッコミも当然あるのだが、この精神は確かに私自身を駆動させるものとして自己の中に存在しているので、もうそういう「サガ」なのだと受容するしかない。ただまだはっきりと、胸を張って「私は啓蒙主義者です」と言えるだけの器量を獲得していない。ここは今後の自分の課題としたいところである。とにかく、他者への戒めという点が二つ。

    そして投影であるが、これの主体は「我」と「他」である。この主語の重複性を語る前に、まずこの心理機構の原典を示さなければならない。まず一つはフロイトが提唱した防衛機制における投影、もう一つは、ユングが提唱した元型の中の一つのシャドウである。なぜ二つ示すかと言うと、メカニズムの大枠の理解としてはどちらも同じだからだ。この投影という言葉は「自己投影」と若干の変化が加えられて、「感情移入」のニュアンスで使用されていることがある。例えば、ある漫画のキャラクターに対して「これは作者の自己投影である」という評価とか、自分の分身ともいえるアバターになりきっている人に「彼はキャラクターに自己投影している」という評価などである。しかし感情移入という意味で投影を使用するのは理解として正確ではない。ある決定的な心の動きが欠落している。この防衛機制は非常に奥深く、かつ厄介で、攻防一体となっているところが他の防衛機制とは異なっている。正確に説明するには一つの記事を用意したいくらいなので詳細は割愛するが、結論から言えば私は判断型の性質を批判することで精神的に楽になっていたのである。投影の機序を理解すれば主語を二つにしたのも理解できると思われる。この投影というのが三つ目。

    冒頭の引用で示した通り、Jは知覚より判断が先行しており、故に判断が早いという性質がある。この「判断」というのは「結論」という表現に置き換えてもいい。Jというのは何かと結論を急ぎがちなのだ。また発信力に長けている一方で傾聴力が弱い。これは過去に行ったとあるユーザー達との対話の結果、充分納得した上での自分の認識なのだが、諸事情がありその内容を直接紹介することはできない。しかし、昔Xのアカウントで行っていた質問箱でちょうど適当な質問をもらったことがあるので、そちらを紹介しよう。

    なかなか手厳しい意見だが、どれも自分の性質として受け入れていたし、むしろコンセンサスが取れていることに嬉しさを感じたくらいである。「人それぞれ」には反駁したいところがあるが、本稿のテーマと離れてしまうので割愛する。とにかく、「判断型のJは判断が早い」ということを前提として以降論を展開していくことにする。

    ※類型論を扱う上で非常に重要と思われる。

    ところで、今のところ「判断が早い」という性質にはネガティブな評価しか行っていないが、フラットな視点に立てばポジティブな評価も可能だろう。ここで一旦双方の立場になってそれぞれの評価を整理してみたい。

    オリジナルは「判断が遅い」です。

    「判断が早い」でWeb上を検索してみると、判断の早さが評価されるシチュエーションというのは大半の場合ビジネスシーンであるようだ。なるほど即決即断即断即決、スピード感をもってプロジェクトをドンドン進行させる様はいかにもJ的で、部下を牽引する頼れるリーダー、メールの返事も早くて助かります、迅速な対応ありがとうございますみたいな感じだろうか。一通り調べて、この

    判断が早い = 仕事ができる(有能である)

    という図式は一般論として成立しているという感触を得た。判断の早さを「頭の回転の早さ」に紐づけているケースもあるようだ。他、判断の早さを称揚する評価としては

    • 「判断が早い人」が選ばれる
    • 「考える時間」を自分の中に持っている
    • 「やめる」判断が早いほど成長に繋がる
    • 感情に流されず、事実に基づいて考える
    • 若くして管理職になった人には「判断が早い」ということが共通している

    などが見つけられた。なんか本当にビジネス絡みの記事しかヒットしない。正味、それ判断の早さとなにも関係なくない?という評価もチラホラあるが…

    圧倒的J感

    早計、時期尚早、早とちり、性急、拙速に過ぎる、見切り発車などなど、判断の早さへの訓戒の語は様々あるわけだが、Webで色々調べた結果、ナレッジコミュニティである「Yahoo!知恵袋」において、自分が考えている事をほぼほぼ代弁している質問を見つけてしまった。ネガティブ評のまとめとしてはこちらの引用でもう十分だろう。

    一般的に「判断が早い」と言うのは良い意味で使われる事が多い褒め言葉だと思うのですが、知恵袋を見ていると、
    すぐさま回答を寄せる人ほど(レスポンスの「極めて」早い方ほど)その内容は質問文を見落とした意見や質問者の心情に沿えていない等の短絡的な回答がかなり多い傾向だと思います。

    仕事の場面でも、即断即決型の、ある意味リーダー性に長けた「極めて」判断の早いタイプの上司の判断にはウッカリと言うか、長期的に冷静に様々な人への影響や結果まで鑑みた視点で見た時に短絡的と思わざるを得ない誤判断が多いように認識しています。

    やはり即決型の人の中でも極めてスピードの早い一部の人というのは総じて長期的な視野に欠ける結論を出しがちだと思うのですが、皆さん、ご経験などからどのように感じていますか?

    私の経験から申しますと、早く結果を出したものほど、「もっとちゃんと考えておけばよかった。」と後悔する傾向にあると思います。
    逆に長時間かけて出した結論は、あれだけ時間をかけたのだから、よくない方向に進んだとしても、後悔したら無駄になると思い込んでしまうので結果よしとしてしまうところはあります。
    知恵袋でよく一番最初についた回答は、中身のないような短文がついていることが多いのですが、それは一番を狙った人がとりあえず何か書いとけって感じで回答していることが多いと思います。

    やはり、即決型は動物的な人が多いように思います。熟考以前に思考のスピード自体が遅い人も困りものですが、反射的な人は総じて感情的で了見のせまい決断が目立ちがちですね。個人的にはアホだと判断していますが、なぜか同じアホから判断力のあるリーダーと誤解されている事が多いのが世間の現状です。まぁ大企業にはあまりいないのでいいのですが、地方や一般社会にはたまにいて、たいてい勢力を奮っているので不思議ですね。

    これまたかなり辛辣な意見だが、大体は私も同じようなことを考えている(特に太字部分)。他、判断が早い事に批判的な意見を呈しているブログを見つけたので、いくつか紹介しておこう。

    「判断の早さ」への評価を一旦リセットする試みで始めたリサーチだったが、ポジティブ評の多くは画一的、または思考停止的な印象を受けた。また一般論から脱却しきれていないので面白味にも欠ける。翻ってネガティブ評には、多くの人が是としている価値観、考え方に対するクリティカルな目線と自律性があり、元の学習内容「判断の早さへの批判的態度」を更に強化するような結果となってしまった。自分の調査内容がその学習内容による選択バイアスにかかっている可能性は否定できないものの、強い戒めとして自己を束縛している事実は変わらない。判断が早いという気質、これは自分にとって重くのしかかっている課題なのである。性格など変えることはできないのだから。


    という風にまあ長年そんな風に考えてきたのだけども、ここ数年の間で、大学での勉強の成果かは定かではないが、この「判断の早さ」を長所として活かす方法はないだろうか?と前向きに考える時間が生じることがあった。性格は変えることはできないというなら、受容するしかない。そして受容した上で、それをストレングスとして捉えることができる方法論を提示するのが、恐らく人一倍判断型であることに疑問を抱いてきた自分にできることじゃないんだろうか?そんなことを考えているのは自分だけだろうから、多分需要などないだろう。それでも、一人の人間の超克の意志を、この世界に投げておいていたいという想いがある。少しだけでいいから耳を傾けてほしい。

    ここでもう一度、冒頭での引用部分を紹介しよう。

    Jは知覚(インプット)より判断(アウトプット)が先行しており、情報を取り入れてからそれの正しさを吟味・精査するのではなく、正しいと分かっている情報のみを情報として取り入れる傾向がある。

    この認知過程は言い換えると、まず「正しさ」が宿る結論を生み出せることを保証する、何某かの理論体系が既に学習済みであり、それに基づいて(目の前の認知対象の精査をスキップして)判断している、ということである。ここで採用している理論体系というのが重要な部分だ。この前提としている理論に瑕疵が存在する場合、それを基に出力した結論にも瑕疵が存在するのは必然だ。土台から間違っているからだ。

    しかし、もし仮に、その採用している理論が、一つの例外もなく常に真実真正の真理を弾き出せるようなものであった場合、Jの判断の早さがむしろ有効に働くのではないだろうか?ということを私は考えた。あくまで理屈の上での話だが、この場合なら確からしい正しさが保証された上で先手を打つことができるようになるだろう。

    そしてその「一つの例外もなく常に真実真正の真理を弾き出せる理論というのは一体何なんだ?」というのが最大の問題になる。ここは慎重に考えなければならない。ここでの選択ミスは未来での敗北を意味するし、判断型の発信力の高さが悪い方へ作用する。順当に考えれば自然科学や数学の理論を採用するのが妥当性が高いだろう。それらの分野に親和性があるならそれでもいいと思うが、生憎私は双方の分野とも知識の吸収に難を抱える人間である。また、数学の方は多分大丈夫だと思うが、科学に関してはカール・ポパーが提唱した「反証可能性」が示す通り、誤りを修正し続ける分野であるので、理論として採用したとしても常にそれが絶対的な正しさを保証するとは限らず、認識のアップデートが必要となる。

    理数系の才覚には恵まれなかった私ではあるが、論理学においては多少の見込みはあったようだ。実際論理的思考が必要とされる情報処理の仕事でなんとか生き長らえている。ロジックを追求する学問上で、前述した常に誤りなく真理を導くことができる理論を見つけ、習得することができた。僭越ながら以下にそれを紹介することにしたい。理屈のカラクリが分かればそう難しい概念ではない。

    今目の前に、一人の座頭市がいるとしよう。座頭市は仕込み杖の刃を露わにさせ、以下の命題を宣言した。

    「寄らば斬る」

    臨戦態勢の構えを取る座頭市と呼応するかのように、焔に照らされた人間がそこにもう一人。侍である。侍は座頭市の先ほどの宣言を耳に入れ、理解している。

    侍は以下のように思った。

    くほほ。あの座頭市さん「寄らば斬る」だなんて言ってしもて。おっとろしいなあ。剣呑だなあ。寄らば斬るということは、寄らなければ斬られないってことなんじゃろ。古来から君子危うきに近寄らず、と言います。私は君子、そう賢い人。立派な人。私も一応侍名乗っているが、バトルマニアでもなし、無益な殺生は好まない。まあ本当は侍はファッションなんだけどね。それでもやったら私が勝つけどね。まあどうでもいいけど。ちょうどいいところにキャンプファイアがあるから、これで暖を取りつつ珈琲でもしばいたろかな、ほほほ(放屁)。

    侍は焔の前でアホみたいな表情のままチルっている。したところ、先ほどまで構えの状態で地蔵の様に硬直していた座頭市が、しゅんっ、と風のような速さで侍の懐に忍び込み、仕込み杖を完全に抜刀、雷のような斬撃を侍に放った。侍の血潮が炎で彩られた闇夜の宙に舞う。意識を失って倒れた侍はもう砂浜に打ち棄てられた流木と分別が付かない、物言わぬ存在となった。R.I.P.

    座頭市は「寄らば斬る」と宣言したが、実際は侍に自ら寄りに行って斬りかかった。侍は座頭市の宣言から「寄らなければ安心」と判断したが、結局寄りかかってきた座頭市に斬られ、命を落としてしまった。

    この状況、どう判断したらいいだろうか。座頭市が言行不一致をしでかしたんだろうか。それとも侍の思考に穴があったのだろうか。

    結論から言うと座頭市は何も誤りを犯してはいない。誤りを犯したのは侍の方である。侍の推論は誤りを含んだものであったため、敗北するに至ったのである。

    それでは、侍が犯した誤った推論とは何だったのか?

    もう一度、座頭市の命題に対する侍の思考を引用してみよう。

    くほほ。あの座頭市さん「寄らば斬る」だなんて言ってしもて。おっとろしいなあ。剣呑だなあ。寄らば斬るということは、寄らなければ斬られないってことなんじゃろ。古来から君子危うきに近寄らず、と言います。私は君子、そう賢い人。立派な人。私も一応侍名乗っているが、バトルマニアでもなし、無益な殺生は好まない。まあ本当は侍はファッションなんだけどね。それでもやったら私が勝つけどね。まあどうでもいいけど。ちょうどいいところにキャンプファイアがあるから、これで暖を取りつつ珈琲でもしばいたろかな、ほほほ(放屁)。

    赤字で示した部分が誤っている推論だ。ここで座頭市が宣言した命題を確認してみよう。

    寄らば斬る

    この命題に対し、侍は「寄らなければ斬られない」という判断をしたのだ。一体この推論の何が間違いだというのか。それは、座頭市が宣言したのは、「寄るのであれば、斬る」という、寄った場合のシチュエーションにのみ言及しているのであり、寄らなかった場合のシチュエーションに対しては何も言っていない。「寄らなければ○○」という宣言は一切行っていないのである。ところが侍は「寄らなければ斬られない」と、座頭市が宣言していないことを汲み取ったのである。座頭市はそのようなことを言っていないので、寄っていない状態から自ら斬りにかかっていっても矛盾は生じないのである。

    ここで記号表現を使用して少し抽象的に論理を展開してみよう。「寄る」ことを「A」、「斬る」ことを「B」に置き換えると、座頭市の命題は以下の様に示すことができる。

    A → B

    「→」は「仮言」と呼び、「ならば」を意味する。つまり上記命題を日本語に直すと、「寄るのであれば斬る」と翻訳できる。また、仮言の左側の記号を「前件」、右側の記号を「後件」と呼ぶ。

    翻って、侍が行った推論を同様に記号で表現すると、以下になる。

    ¬A → ¬B

    「¬」は「否定」を意味し、「¬A」は「寄らない」、「¬B」は「斬らない(斬られない)」を意味する。つまりこの命題は「寄らなければ斬られない」と翻訳でき、元の侍の推論と一致する。既に述べた通り、侍が行った推論は誤っている。これは「前件を否定することで後件の否定を導く」という形を取っている。この論理形式を前件否定の誤謬と呼ぶ。侍の敗因は前件否定の誤謬にあった。

    もう一つ誤った論理形式を紹介する。今度は記号での表現を先に持ってきてみよう。

    B → A

    見て分かる通りこれは前件と後件を入れ替えた形になっている。これを翻訳するとどうなるか。「斬るならば寄る」では日本語としておかしくなるので、倒れている侍を見て「斬られたのならば(座頭市に)寄った」と解釈するのが妥当だろう。この推論はこの座頭市と侍のシチュエーションにおいては正解だが、普遍的に通用する推論ではない。これもまた誤りを含んだ思考形態なのである。

    この命題では分かりにくいので別のものを用意しよう。

    Tならば論理的思考力が優れている

    「T」というのはMBTIにおける思考機能が優位なタイプを示す。ここでは実際にTが論理的思考力が優れているかどうかは不問とする。また、論理的思考力のスコアの測定方法も不問とする。ここではあくまで上記の命題の論理的な構造にのみ着目し、真実性蓋然性は問題にしない。

    この命題に対し、先ほどの前件と後件を入れ替える変形を施した 場合、以下のような命題になる。

    論理的思考力が優れているのであればTである

    しかしこの推論は誤りだ。なぜなら論理的思考力が優れているFが存在する可能性があるからだ。元の命題で「Fならば論理的思考力は優れていない」と宣言していない限り、論理的思考力が優れているFの存在が許される。だから論理的思考力が優れているからといってTだという判断は妥当ではないのだ。この論理形式は後件肯定の誤謬と呼ばれる。

    また「Tならば論理的思考力が優れている」という命題から、「ならFは論理的思考が苦手であると言いたいのか」と反論するのも間違いだ。そう言いたくなる気持ちは分かる。何故なら過去に自分もそのような過ちを犯したことがあるからだ。しかし元の命題は「Tであった場合」に対してのみの言及であり、「Fであった場合」については一言も宣言していないのである。冷静になるべし。

    以上二つの誤謬の形式を取り上げたが、一つだけ妥当な論理の変形がある。それは以下のようなものだ。

    ¬B → ¬A

    前件と後件を入れ替え、かつ双方を否定した形である。この形式を「寄らば斬る」に適用させた場合、

    斬られていないなら寄っていない

    となる。この推論は正しい。斬られていない人を見て、あの人は座頭市に寄らなかった、と判断するのは何も誤っていない。これは対偶と呼ばれる論理形式である。

    まとめると、命題

    A → B

    から変形できる論理形式で妥当なものは

    ¬B → ¬A

    のみであり、「¬A → ¬B」も「B → A」は誤りであるという事である。以上ここで取り上げた、広大な論理学の中の極一部の教えは「検査機構」として自己の内部に鎮座しており、客体が多少複雑なロジックを組んでいた場合、それを即座にこの検査機構に投げ込み、誤りがないかどうかチェックしている。また詭弁を見破る術としても活用することができるだろう。ちなみに私は詭弁は暴力よりも悪質な行為だと思っている。

    先人たちの思考の結晶が積み重なっている論理学の教えに誤りがないことは確かだが、私が本稿で示した「Jの判断の早さを活かす術」の正誤については、ただ私一人が言っているだけの状態であるので、まだ仮説の段階に留めておきたい。これがどちらに傾くかは今後の私の在り方次第になると思う。

    最後に「ウェイソンの選択カード問題」というものを紹介にして終わりにしたい。提示された4枚のカードは「片面が母音であれば、その裏面の数字は偶数である」というルールに則っている。そしてこのルールが本当に成立しているかを調べるには、どのカードをめくる必要があるか?という問題だ。すべてのカードをめくる必要はない。先に言っておくとめくるカードは2枚で十分だ。1971年の研究では、128人にテストしたところ正答率は僅か約4%だったそうだが、本稿を最初からここまで読んでいるのであれば正解に辿り着くことはできるだろう。多分……

    「片面が母音であれば、その裏面の数字は偶数である」

    本稿では「前提としている理論に瑕疵が存在する場合、それを基に出力した結論にも瑕疵が存在するのは必然」と述べた。このブログはMBTIのフレームワークを前提とした存在である。無論その前提部分の蓋然性を疑うことも可能だが、それを行うとブログそのものが解体しかねないので、これだけは特例とし、何も考えないことにした。

    また、本文中の一部の表現においては、敬愛している作家の町田康氏の文体を拝借した。

  • 私の内向直観セレクション

    私の内向直観セレクション

    「文章を書く際は自分と同じタイプの人物のものを参考にするとよい」とはかつて交流があったユーザーの言だが、これは自分も全面的に賛同するところであり、なんとなれば、そりゃタイプというのは価値観思想信条行動様式学習傾向認知パターンと、およそパーソナリティを構成している要素なら類似しているものであって、斯様な人間が書いた文章となれば当然共感を覚えやすいものであるし、事によると、あれ、なんで私が書いた文章が本になってるの?なんて経験をすることもあるかも知れない。自分と似た精神構造を持つ人間の心の声を聞くことは、孤独を抱えている者であれば癒しをもたらすだろうし、人生の羅針盤が見つけられない者にとってはロールモデルとして機能するだろう。いずれにせよ人生の先輩として学ぶべきことは多くあり、より豊かな精神世界と感受性を育む手立てとして、自分と同じタイプの作家の本を読むことは是非勧めたいところである。これは自分の経験から申している事で、自己のタイピングの材料としても重大な役目を果たしている。

    とここまで書いてみたところ、ある一つの違和感が生じてしまうのは前段末尾の「自己のタイピングの材料としても重大な役目を果たしている」という部分で、これは「同じタイプの作家の本を読んでみよう」という自己実現メソッドを、タイピングの判定法として活用する場合矛盾が生じてしまう。というのは、彼らの著作を読んでいた時、僕はタイプや心理機能を通して登場人物の機微や作者の思想などを理解しようとはしていなかった。こんなブログを書くまでMBTIに取り憑かれているのになぜしなかったのかと不思議に思うかもしれないが、答えは単純で、当時MBTIの概念を知らなかったのだ。つまり「己のタイピングの材料としても~」は結果論なのである。

    ここで一つ思考実験をしてみる。仮に「自分と同じタイプの作家の本を読む」ことが、確かな精度をもったタイピング法であるとして、このメソッドを実践しようとしている青年がいるとしよう。彼は当然自己のタイプを決めあぐねている。彼はまず目的を「自分と同じタイプの作家を探す」ことにして行動に移すが、自分のタイプが分かっていないので当然これは失敗する。次に目的を「自分のタイプを知る」ことに切り替えるが、そもそもそれが原初的な目的であって、どうやってもはじめの一歩目が踏み出せないことに気付き、このメソッドの提唱者、つまり僕のことを撲殺しようと企てる結末を迎えてしまう。

    つまりこのメソッドは自己参照的で、「自分と同じタイプの作家を探す」が成立するのは自分のタイプが明らかになっているときであり、そして明らかになっているのであればこのメソッドは必要ない。目的が達成した状態でないと始まらない構造になっており、破綻しているのである。

    とまあ大分空疎な書き出しではあるが、「自分と同タイプの人間や作品」という存在自体はとても興味が惹かれるものだし、これまでに吸収してきた諸作品が自己のタイピング材料として機能しているのは、漠然と、しかし同時に確信的な感覚※1として僕の中に在るのも事実である。この記事では「内向直観」という概念を自分のコアとして捉え、それの形成に資した作品や人物を紹介したい。上記では小説に絞ったが、音楽や漫画、ゲームにも言及する(むしろそちらの方が多い)。これまでに影響を受けたものは、作品にしろ人物にしろ外向直観要素や内向感情要素が感じられるものもあるのだが、紹介事例は内向直観、或いはそれに呼応する外向感覚要素が感じられるものだけに絞って厳選した。もちろんそれらのタイピングは僕の主観的判断によるものだが、それ自体を楽しんでいただければ幸いである。内向直観は他の機能と比べて言語で表すのが難しく、8つの心理機能の中でも特殊な位置に置かれていることが多いが、本稿ではフィクション・ノンフィクション問わず具体例を提示し、なるべく言葉に落とし込んだ説明を用意したつもりである。

    ※1 矛盾した表現だが、基本に立ち返ればSNは「非合理」機能である。在るものは在るのだから仕方ない。

    本題に入る前に、昨今の状況について少し整理しておきたい。

    このブログでは一貫して、今は亡き「MBTI性格タイプ論の視点から世界を覗こう」で紹介されていた心理機能で考察を試みているが、この心理機能は使用順序ごとに意識の方向(外向/内向)が反転していく、というフローになっている。ここではそれを便宜上「覗こうフロー」とでも呼んでおこう。数学は苦手でちょっと我流の表現が入っているかもしれないが、覗こうフローを集合の記述で表現してみる。以下のように定義する。

    • J = {T,F}  j ∊ J
    • P = {S,N}  p ∊ P
    • D = {e,i}  d ∊ D※2

    ※2 Direction

    この定義から以下が導ける。分かりやすいようにハイフンで分割する。

    で、この覗こうフロー、僕の感覚値でしかないのだが、おそらく2020年以前までのネット※3では、ユーザーはこの理論で統一見解を持てていたように思う。ところが、最近ではこの基盤部分の共有が少し怪しくなっているかもしれない。

    ※3 とはいっても海外の事情は知らない。

    MBTI公式のプロモーター的な発信をする高原雅之氏のポストだが、覗こうフローはこの投稿の最後の「謎理論」「派生理論」に該当するだろう。派生理論はまだしも、謎理論というのはどこの馬の骨とも知れない素人が作った得体の知れない理屈、とでも言いたいようなニュアンスを感じる。「覗こう」のテキストより先に公式をインストールしたユーザーは、高原氏の言うとおり覗こうフローを本家の亜流として位置付けることになると思われる。ちなみに公式のフローを先ほどの集合の定義で記述すると以下のようになる。

    数カ月前Xで「公式は情報商材屋と手口が同じ」という批判が少し話題になったが、依然として「公式」が持つブランド力は保たれているように思える。かつては覗こうフローを採用していたユーザーも現状に辟易してソシオニクス※4に移行してしまった。覗こうフローはもう下火になりつつあるのかも知れないのだが、このブログではこれまで通り覗こうフロー採用を継続する。それはまあ、今までこれでやってきたのだから今更変えるわけにはいかん、という非合理な理由もないことはないのだが、それはそれとして、覗こうフローには非常に優れたところがある。

    ※4 意義のある自己洞察をするには「現実から降りる」必要がある。以前はMBTIを活用することによってそれが可能だったが、現在は「現実」がMBTIに浸食してしまい、「降りる」ことができなくなってしまった。このような状況下で、姉妹理論であるソシオニクスはMBTIのオルタナティブとして機能していると思われます。

    8つの心理機能はそれぞれ対極の性質を持つ機能を持ち、ペアとして存在している。そしてこのペアはトレードオフ※5の関係になっている。要は片方を成り立たせようとするともう片方が成り立たない。そして覗こうフローでは2対のトレードオフ関係を見出すことができる。即ち、第1・第4区間と第2・第3区間である。この内、後者の第2・第3区間のトレードオフに着目したい。

    第2機能はその者のストレングスとして表出しやすいが、第3機能は使おうとしても扱い方がヘタクソで、急所になってしまいやすい。大抵はそのことに自覚があるだろう※6。普通に考えれば、第2機能を使うことを優先、第3機能は棄却されトレードオフにならないのでは、と思うかもしれない。が、なんでか分からないが、頑張って第3機能を使おうとしているシーンは少なくない。というか、案外ある。

    ※5 この性質は「過度に自由な二次的理解」を防ぐという役割もある。詳細は別記事にて書く予定。

    ※6 ミスタイプしていなければ、だが。

    内向思考外向感情のペアで一例を挙げてみると、皆の話を聞いていて、どうも腑に落ちないところがあるっていうか、この人矛盾したこと言ってない?って思うんだけど、なんか空気的にそんなことを言うのは求められてないし、水を差すのも悪いから、まあ、黙っとくか…てな具合である。

    外向感覚内向直観のペアだとどうだろうか。ありのままの現実をそのまま表現するのがいい、何故なら現実が間違っていることなんてありえないから。しかしその一方で、演出を加えた結果それが誤り※7になってしまったとしても、それでより経済が回ったり、誰かが幸福になるのであれば、盛った方がいいのではないか?という拮抗。

    ※7 とは言っても、NJ目線では内向直観で知覚したものこそが現実であるという認識なので、難しいところではある。外向感覚を意識しない限り、NJは自身の虚構性や誤謬に無自覚となり、常にバイアスがかかった現実認識をすることになる。内向直観がとかく危険視されるのはこういう理由による。要は思い込みや自己暗示に関わる機能なのである。

    どちらの言い分も道理にかなっており、答えを掴んだような気になって一方に寄りかかっても、ほんのわずかなきっかけでまた反対側の方に意識が持っていかれ、なかなか納得がいく答えが出ない。第2・第3区間のフローは解き難いジレンマとして我々を拘束する。だからこそこのジレンマが青年期の課題として成り立ち、この難問に立ち向かうことが精神的成長の一助となり、意義と価値があるフレームワークとなるのである。これが覗こうフローの優れたところである。第1・第4区間に着目しないのは、容易に決着がつくことがほとんどで、ジレンマとして成立しないからだ※8

    ※8 この区間のジレンマに陥ると神経症のような状態になるのではないかと思う。それは自我が耐えられないので、早々と主機能に軍配が上がる結果となる。ただISFPは「報酬(狭義的に言えば金)」に駆動されるシーンがそこそこあるように見受けられるので、全タイプがそうとは限らないかもしれない。

    もう一点だけ述べたいことがある。僕の現在のXのアカウントは2代目であり、2024年の9月くらいまで使用していた初代アカウントではpeing(質問箱のサービス)でMBTIの質問を色々受け付けていたのだが、その中で「お前は外向感情機能が見当たらないからINFJではない」という指摘を複数もらった。INFJであることは認めつつも「外向感情が壊れている」という指摘もあったと思う。以前のアカウントでは色々な人に突っかかっていたので、そう言われるのも仕方なしだが納得はできると思うのが半分、しかしINFJと認識されていないことは不服であるというのが半分と、色々と複雑な心境だった。説明するにしても自分の存在の根幹に関わっているところだから言語化するにも骨が折れるし、そもそも外向感情が壊れていること自体自分自身苦しめられているところがあったから、深堀することに抵抗感があって説明は避けてきた。しかしいい機会なので、自分がなぜ「こう」なってしまったのかの説明もこの記事で行いたいと思う。

    僕は小心者であり、生きている内の大半の時間はこの世界にビビっているし、今までずっとそうして生きてきたが、今ここでその考えを逆転させよう。つまり、僕が世界に圧倒されるのではなく、僕が世界を圧倒する。それでは珠玉の内向直観をご賞味あれ。

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  • 「十二人の怒れる男」たちをタイピング

    「十二人の怒れる男」たちをタイピング

    「十二人の怒れる男」は1957年アメリカで公開された映画です。この映画は放送大学の科目「心理学概論」内の紹介で知るところとなりました。講師の森教授の虚心坦懐な紹介で興味を持ち、実際に観てみたところ大変面白い映画でした。この記事は登場人物十二人のタイピングを試みるものとなります。

    映画の概要は、陪審員として選ばれた十二人が被告人の有罪/無罪の判決を下すまでの喧々諤々の議論を描いたものです。陪審制度により全員の票が一致しなければなりません。十二人はそれぞれ番号で呼ばれ、名前は明かされません。

    一連の裁判が終わり、十二人は陪審員室に招かれます。被告人の生死を決める立場でありながら、今宵観戦する野球の話をする人間、株の引値を調べる人間とがおり、緊張感に欠いている。(劇中では描かれていませんが)裁判では犯行が被告人によるものだったと匂わせる多くの状況証拠・証言が提出されていました。少年の有罪が確定なのは話すまでもないとばかりの雰囲気の中、十二人の陪審員は挙手によって判決を出そうとします。満場一致で終了すると予想された状況で、ただ一人挙手に応じない人間の存在がこの映画のドラマの幕を開けます。

    10「やれやれ。いつも一人いる…」

    8番のタイピング

    タイトルの「十二人」が示す通りこの映画は群像的で、明確に主人公と言える人物を挙げることには違和感が伴いますが、それでも8番を主役級として看做すことにはそう異論は起こらないでしょう。最初の挙手に唯一応じなかった人物です。本稿の考察はこの8番のタイピングを起点とすることにします。

    タイピングするにあたり私が重要視している要素の一つとして「動機」があります。少年の有罪を示す状況証拠が多い中でなぜ8番は無罪を主張したのか。8番の台詞から読み解いてみます。

    8「あの子はひどい人生を過ごした。スラムで生まれ9歳で母が死んだ。父親が服役中は1年半を施設で過ごした。不幸な子供だった。反抗的な少年になったのも、毎日1回誰かに頭を殴られたからだ。惨めな18年だった。少しは討論してやろう」

    一読して分かる通り8番の被告人への目線は温情的なもので、情状酌量する立場をとっています。これはNFがよく取る態度ではないでしょうか。たとえ犯罪者であってもそれをするだけの事情があった、状況が彼や彼女をそうさせたのだと、性善説の立場をとるNFは多いでしょう。

    付け加えればNFは他者の背景への想像力を欠いた人間を嫌うことが多い。こういうところは他のタイプから「甘さ」として映ることも少なくないように思います。

    先に「なぜ8番は無罪を主張したのか」と述べましたが、よく8番の台詞を読み取ってみると少年が無罪であることに確信があるわけではないし、少年を100%信じている訳でもありません。

    3「本気で無罪を?」
    8「分からない」
    10「君はやつの話を信じてる?」
    8「多分信じていないね」

    少年の無罪を信じていないのであれば、無罪を主張する理由としては少し弱い。私は以下の台詞からまた違った動機もあるように思います。

    8「11人が有罪だ。私が賛成したら簡単に死刑が決まる」

    8「気を変えろとは言わん。ただ人の生死を5分で決めて間違ったら?」

    8「別に派手な意見はない。皆さんと同じだ。証言に従えば有罪かもしれない。私は6日間法廷で証言に耳を傾けた。確信に満ちた証言ばかりで妙な気がした。明白だろうか?私には多くの疑問がわいてきた。弁護人が徹底して反対尋問を行っていない。細部を見逃してる」

    8番はこの裁判に疑問を抱いている。「疑問が残る状況であるにも関わらず、十分に話し合いをしないまま判断を下すこと」への抵抗感があるのではないでしょうか。私はここからPの性質である「判断の保留」を見て取ります(反対に判断型のJは何かと判断を急ぎがちです)。

    もう一点、8番は「可能性」に言及しているシーンが複数あります。中にはかなり感情的になっているものもあります。先の引用からの続きです。

    10「細部をほじくり返すとやぶ蛇になるからだ」
    8「だが弁護士が無能だという事もあり得る
    7「義理の兄がそうだ」
    8「あの子の立場に立てば、弁護士を代えたい。命のかかった裁判なら、弁護士に検察の証人を打破してもらいたい。殺人の目撃者と称する証人は一人だけ。後は物音を聞いた証人と多くの状況証拠だ。もし検察側のこの2人の証人が間違っていたら?」
    12「どういう意味だ?間違うって?」
    8「あり得るよ」
    12「証人は宣誓している」
    8「人間なら間違いはあり得る

    4「さてナイフは?ポケットから落としたそうだ。11時半から3時10分の間に。その後二度と見なかったと。彼は映画に行かなかったと思う。少年の姿は誰も見てないし彼は題名も覚えていない。実際はこうだ、彼は家にいてまた父と争い、父を刺し12時10分家を出た。ナイフの指紋さえぬぐった。いいかね、このナイフを少年が落とし誰かが道で拾い、少年の父を刺しに行ったと?」
    8「可能性はあると思う。似たナイフで他人が刺した」
    4「よく見てくれ。珍しいナイフだ。店の主人さえ初めて見たと言った。それでも偶然があり得ると?」
    8「可能性はある

    3「そのトリックで何が証明できる?10本あるのか?」
    8「あるかも
    3「あったら?そのナイフは世紀の発見か?」
    12「全く同じナイフで他人が刺したと?」
    7「まさかね!」
    8「あり得る!

    8「あり得る!」

    可能性に賭けるのは心理機能で言えば外向的直観の作用に値すると思います。外向的直観は可能性が高い事象よりむしろ可能性が低い事象に着目することが多いでしょう。

    少年を擁護するウェットなヒューマニズムからNF、判断の保留からP、外向直観優位からNP、水面下に強い熱意を宿している様から内向型のタイプと考えます。よって8番はINFPです。

    8番INFP。少年の有罪が確定的とも思える状況で、ただ一人無罪の可能性を追求する。

    9番のタイピング

    8番の隣に座った9番を見てみましょう。おそらく十二人の中で最も高齢の人物です。議論の途中8番の提案で自身を除く11人で投票し、11票すべてが有罪であれば8番も有罪に転向、しかし無罪が1票でもあれば議論は続ける、というルールで投票が実行されます。「guilty…guilty…guilty…」と有罪票が開票され続ける中、「…not guilty」と一枚だけ無罪票が在りました。それを投票したのがこの9番です。一番早く無罪側に転向しました。

    9番がなぜ無罪に意見を変えたのか、その理由を話すシーンがあります。

    9「この方が一人で反対された。無罪とは言わず確信がないと言った。勇気ある発言だ。そして誰かの支持にかけた。だから応じた。多分有罪だろうがもっと話を聞きたい」

    実のところ9番は無罪だと考えを改めたわけではなく、未だに有罪だと考えている。しかしその自分の考えよりも他者の要望に応えることを優先しました。ここから「外向的感情 > 内向的思考」の心的な力関係を見て取ることが可能です。

    また、事件現場の階下の老人は、犯行があった際に少年の「殺してやる!」という声と体が倒れる音を聞いており、これが少年の有罪を示す証言となっていたのですが、音を聞いた瞬間はすぐ近くの高架鉄道が走行している最中であり、騒音の中で聞こえるはずがないということを8番は主張します。しかし仮に聞こえなかったとしたら老人は嘘をついていることになり、なぜわざわざそんなことをするのかが不明です。

    この理由について9番は以下のように洞察します。

    9「長い時間彼を観察していた。上着の袖がほころびていた。あんな服で法廷へ出てくるとはね。つまり破れ上着のお年寄りで証言台へのろのろ歩いた。左足を引きずってなんとかそれを隠そうとしてた。この人の気持ちはよく分かる。今まで静かに怯えながら生きてきた老人だ。人に認められることもなく新聞に名前も出ない。誰からも顧みられない。75年間誰からも意見を求められない。皆さん、こんな悲しいことはない。生涯に一度は注目されたい。自分の言葉を引用したらどんなにうれしいか。だから目立ちたくて…」
    7「一度目立ちたくてウソをついたと?」
    9「本人はウソのつもりはない。多分少年の言葉を聞いたと信じているのだ」
    10「こんなタワ言初めてだ。よくもそんな作り話を」

    9番の考えは他者自身が自覚していない領域まで考慮したもので、突飛なものだと言えると思います。孤独な人生を送った人間が注目欲しさにウソをついたというのは確かに動機として成立し得ますが、老人が本当にそんなことを考えていたのかは誰にもわかりません。

    9番の判断は内向的直観の作用が働いたものだと考えます。内向的直観は時空を超えて成立する性質――つまり普遍性――に着目する傾向があり、「今」「ここ」を無視した着想を得ることが多いと思います。現実性が伴わない考え(或いはイメージ)は感覚優位の人間からはなかなか理解されず、10番からはフィクション扱いされてしまう。他者からの同意を得られなかった9番は意気消沈してしまいます(ここにもフィードバックに敏感な外向的感情の性質が見て取れます)。

    ※コスモロジーや運命論とも親和性が高い。

    しかし9番の発言はこの議論の空間に少なからず影響を与えている。7番の台詞からその余波が読み取れます。

    7「みんなおかしいぜ、何やってるんだ。勝手に話を作ってさ、ああでもないこうでもないと好きにほざいてよ。あの老人はどうだ?ドアへ駆け寄り探人の15秒後、ガキが逃げるのを見た。あの証言もウソか?どうなんだよ。あれも老人が目立ちたくてウソ言ったか」

    付け加えると、内向的直観が時と場所を選ばない傾向があるのに対し、内向的感覚は時と場所を限定させる傾向があり、なかなか折り合いがつきにくい力関係にあると思います。

    内向直観と外向感情優位なところからNFJ、8番同様静かな印象を受けるところから内向型と判断。よって9番はINFJ

    9番INFJ。8番の勇気を讃え一番早く無罪側に転向。

    映画のエンディングの直前で、8番と9番は握手をした後に分かれます。INFPとINFJ、知覚型と判断型の違いはありますが、なかなか表層には表れない静かな熱意を持つ理想主義者であることは共通しています。何か感じ入るところがあったのでしょう。

    4番のタイピング

    株式仲介人で、一貫して冷静沈着な人物です。裁判中の証拠品や証言を重要視し、論理的な推論により少年の有罪を主張します。

    少年が反社会的になったのは環境のせいだと擁護する8番に以下のように反論します。

    4「的外れだ。少年は悪い環境の所産だが、それを論じても仕方ない。問題は有罪か無罪かなのだ。スラムが犯罪の温床なのは事実で、そこの子供たちが社会に脅威を与えているが」

    背景を汲み取っても仕方ないと、感情的判断を排する様はロボットのようでもあり、十二人の中では一番論理型の人間のように思えます。タイピングは後述になりますが、同じ論理型かつ有罪派である3番や10番は明らかに感情に駆動されており、純粋に論理に従っているとは言い難い(もっともこの二人が感情的になっているのは被告人にそうさせる属性があったからではあるが)。

    以下は証拠品である殺人に使われたナイフから少年の犯行を推論するシーンです。先に4番は論理型の人間であると述べましたが、ここでは少し違った観点から見てみたいと思います。

    4「あのナイフは強力な証拠だね」
    8「そうだ」
    4「では事実を1つずつ詰めよう。1(One)、少年は夜8時父親からビンタを食らい家を出た」
    6「ビンタじゃない、ゲンコだよ。大違いだ」
    4「とにかく殴られた後だ。2(Two)、彼はまっすぐ近くの古物商へ行きナイフを買った。柄と刃に奇妙な彫刻のある飛び出しナイフで、店の主人も在庫は1本だけと言った。3(Three)、8時45分彼は酒場の前で数人の友達と会った」
    8「そうだ」
    4「友達とは9時45分に別れた。彼らはその時ナイフを見た。4(Four)、そして法廷で殺人の凶器がそのナイフだと確認した。5(Five)、少年は10時ごろ帰宅、この辺から検事と少年の話は食い違う。少年は11時半に映画に行き、3時10分帰宅、父の死を知り逮捕される」
    8「逮捕の刑事に階段から突き落とされた」
    4「さてナイフは?ポケットから落としたそうだ。11時半から3時10分の間に。その後二度と見なかったと。彼は映画に行かなかったと思う。少年の姿は誰も見てないし彼は題名も覚えていない。実際はこうだ、彼は家にいてまた父と争い、父を刺し12時10分家を出た。ナイフの指紋さえぬぐった。いいかね、このナイフを少年が落とし誰かが道で拾い、少年の父を刺しに行ったと?」

    正確な時間軸に沿って事実を枚挙しています。これは内向的感覚の作用を宿した振る舞いのように思います。順列に従うことと事実は内向感覚優位の人間にとって重要な概念でしょう。Ifの想像力が作り出すパラレル的な世界観には関心が薄く、たった一つの現実世界の住人です。地に足がついており、Tの作用が加わると堅牢な印象になります。

    付け加えると、内向的感覚に呼応する外向的直観は連想の作用が効く分順列が出鱈目なものになりがちです。もっとも出鱈目のまま対応できる柔軟性も持ち合わせているし、見方を変えれば前者は融通が効かないとも言えます。一つ一つの点が内向感覚だとすれば、それらをつなぐ線が外向直観のイメージです。

    また内向的直観は順列の順番そのものを変えたり、飛躍的な処理をすることがあります。

    もう一点、4番はどこか8番の熱意を買っている様子がうかがえます。

    3「どうだい、五分五分とはね、驚いたな。さっきはあの背の高い男がひどいことを言った。そりゃ俺は興奮しやすいが、やれ社会の復讐者だとか、サディストだとか言ってさ。俺を目の敵だ」
    4「彼は熱心だ」

    劇中の後半では8番から記憶力を試す挑戦を受けますが、それも真っ向から引き受けています。また先に引用したナイフは、ここは実際に映像を観てほしいところなので画像や台詞の引用はしませんが、ナイフはその独特のデザインから一本しかないオリジナルなものだと認識されていたのですが、実は8番は全く同じデザインのナイフを町の質屋で発見しており、それを皆に見せつけます。一同は騒然し、議論は白熱したものになります。おそらく4番の問い詰めがなければ8番はナイフを出すことはなかったでしょう。8番にとっていい意味で壁として立ちはだかったように思います。

    私はここに活発化の関係性を見出します(参照)。この関係性は自分の不得手となる第3と第4の心理機能を、相手は得手である第1と第2の心理機能として有しており、弱点をカバーしあえる相補的な関係となっています。

    内向感覚優位と論理型の気質からSTJ、8番INFPの活発化に当たるタイプはISTJです。よって4番はこのタイプ。

    4番ISTJ。論理的かつ手続き的な検証で被告人の有罪を主張。

    なかなか厄介な観念だと思いますが、これについて語るだけで一つの記事が必要になりそうなので、詳細を述べるのは別の機会に譲りたいと思います。少しだけ書いておくと、これは恋愛の文脈にいともたやすく流用され、需要に応えようとする存在の影響もあり、表層的な人間理解を生む土壌になっていると思います。情報に踊らされて属性だけで人となりを判断する人間であふれかえっているならば、MBTIを一笑に付す立場をとるのも十分に理解できます。

    本稿では活発化関係と衝突関係を取り扱います。この二つを取り上げているのは自分の経験上納得できるものであり、かつ心理機能の配置からなぜそのような関係になるのかが説明できるからです。

    5番のタイピング

    スラム街出身の労働者です。最初に自分の意見を求められたときパスを要求し、自信のなさが伺えます。曇った表情で俯いていることが多く、どことなく神経症傾向が見て取れるのはIJ的。10番のスラム民への差別感情に反発しますが、属性にアイデンティティを置くのはどちらかといえばPよりJ。3番から謝罪を受けた時の感情のネガティブ反応が抑圧的なところでFJ(Tの場合歪な形で表出することが多く、FPならネガティブであってもストレートに表現)。N系の変人的な雰囲気も感じられないので消去法でS。よって5番はISFJです。根拠薄目ですがこの人物にはこれくらいしかタイピング理由が見つけられませんでした。

    5番ISFJ。スラム街で育った経験からナイフの扱い方の違和感を述べる。

    ※抑圧的というか、FJは顔は笑っているが目は笑っていないみたいな表出をすることがある。

    1番のタイピング

    中学の体育教師でフットボールのコーチです。陪審員長を務め議論をファシリテートします。着目するのは司会の自分を無視して強引に議論を進めようとする10番との諍いのシーン。ここで1番はかなり憤慨します。

    10「かまわん。彼の考えを聞こう」
    1「一度決めた方法は変えたくない」
    10「子供みたいなこと言って!」
    1「子供って?」
    10「文字通り子供の事さ」
    1「私のやり方に不満が?じゃあんたやれよ。私は黙ってるから」
    10「熱くなるな。落ち着け」
    1「あんたがあの席に着け」
    10「こりゃ驚いたよ」
    1「本気だ」
    12「もうよせ。くだらんよ」
    1「じゃあんたが」

    「私のやり方に不満が?」から、おそらく自分の司会進行のフェアネスに自負があったのだと思います。公平さに厳格になるところはIJ的です。IJの外向判断は若干頑固なところはあるにせよ、大抵は公平な立場に立脚したもので、採用している倫理のために我欲を殺していることも珍しくありません(EJはこの辺りのセーブが甘いです)。

    8番の熱意に感化されたのか、自分の身分を話し始めるシーンがあります。心理学に興味を持っていれば「自己開示」という概念は耳にしたことはあるでしょう。ここの台詞はそれに当たるものだと思います。

    1「すごい降りになったね。この前の大雨の時を思い出すよ。確か去年の11月だったかな。ゲームの途中土砂降りだ。うちは6対7で負けてたが、ちょうどタックルをかわして反撃に移ったところだ。あの時はスラッタリーという選手がいてね、すごいパワーがあった。あんな子が欲しい。言うのを忘れていたが私は高校のフットボール・コーチだ。とにかく、こっちの攻撃は好調で敵の布陣はバラバラだ。でも何しろ土砂降りの雨だ。すべてを洗い流す勢いだ。ほんとにひどかったよ。あの時はわめき散らしたもんだ」

    試合の思い出を語る1番は穏やかではありますが、どこか充実感があふれた良い表情をしており、フットボールへ捧げる情熱が伝わってきます。聞き役の8番も満足げな表情をしています。ここでの両者の心理的満足度の高揚も活発化の関係と見做すことができそうです。1番もまたISTJとタイピングできます。

    1番ISTJ。フットボールのコーチに情熱を燃やす。

    コーチング業という後続の育成の担い手となるのもIJ的なポジショニングのように思います。

    2番のタイピング

    銀行員です。8番が見つけた殺人に使われたナイフと全く同じナイフがあったことに、被告の罪状とは無関係の純粋な好奇心を見せました。

    2「同じナイフがあったとは興味深い」
    3「何が興味深いんだ?」
    2「そう思っただけさ」

    頭髪こそ禿げ上がっていますが、声が高く、少年のような天真爛漫さを感じます。2番は最初有罪の立場を取っていましたが、自分の意見を述べる際言葉につっかえており、被告を有罪と見做すことに抵抗感があるようにも見えます。ここは映像を観ないとニュアンスが伝わらないかもしれません。

    2「その…言葉にするのは難しいんですが、でも有罪だと思う。明らかです。その逆は立証できなかった」
    8「立証責任は検察側だけにある。被告人は黙秘権も保証されてる」
    2「それは知ってる。ただ私はね…有罪だと思う。目撃者もいた」

    以下は陪審員室で議論が始まる前のシーンです。どちらかと言えば被告には擁護的な立場であることが伺えます。

    3「どうだね」
    2「興味深い裁判でした」
    3「俺は眠ってた」
    2「陪審員は初めてでね」
    3「俺は何度も務めたよ。弁護士がしゃべりまくって、いくら弁護したって無駄な努力さ」
    2「でも権利がある」

    以下は被告が言った(とされている)「殺してやる」という言葉が、本当に殺意を伴ったものだったのかを議論するシーン。

    8「他にも話したいことがある。”殺してやる”は聞こえなかった」
    10「聞こえたさ」
    8「じゃ聞こえたとする。でもこんな言葉は日常使われてる。息子に”今度やったら殺すぞ”とか。でも別に殺すつもりはない」
    3「待てよ。あの少年は”殺してやる”と大声でわめいた。あのガキの場合は本気で言った」
    2「さあどうかな。半月前に職場の同僚と口論したが、その時叫んだ」

    基本的にFは人好きをする性質があり、人権を尊重する立場を取ります。FJよりFPの方が無条件の肯定をすることが多いでしょう。FJはJの規範意識がある分ルール違反者には無条件とはいきません。Jは他人に厳しいところがあるのですね。

    人権を尊重すると述べましたが、逆に言えばFはTの発達がない限り大抵の意見が「人を尊重しよう」に集約され、バリエーションに欠いたものになります。

    被告の人権を尊重(「でも権利がある」)したところからF、「少年」の元型的イメージに合致するのはISFP。よって2番はこのタイプ。これもまた根拠薄目ですが。

    2番ISFP。証拠品の穴に純粋な好奇心を見せる。

    7番のタイピング

    一番タイピングに悩んだ人物です。セールスマンであり、ハットにストライプのジャケットという都会的なファッションをしています。雑談から今夜ナイター観戦に行くことを楽しみにしていることが分かります。ボディランゲージを駆使しながら軽口をたたく飄々とした様から最初はEP系のように思いました。ただ7番のこの裁判における態度をよく見据えてみると、その判断に疑問が生じてきました。

    まず7番は自身の台詞から時間を気にしていることが分かります。

    7「投票しよう。それで帰れるかもしれん」

    7「その通りさ。誰が信じるものか。涙もろいおっかさんか?こんな時間だ、早くしな」

    そう、7番の目的はナイター観戦に行くためこの裁判を早く切り上げることにあり、少年の罪状には関心がない。

    また、議論の途中8番から有罪・無罪の立場を問われます。この時の状況は有罪派6人、無罪派6人で拮抗した状態。これまで7番は有罪派でしたが、以下のように述べました。

    7「おれはもうガチャガチャ言うの疲れたんだ。面倒くさいから無罪に転向だ」

    この状況下で無罪派に転向すれば7対5で自分が優勢の立場となります。つまり7番は形勢が有利な方へついた。自分のこれまでの経験から、これはNTJ系によく見られる行動様式だと思います。この後7番は11番から激しく詰問をされ、以下のようなやり取りをします。

    7「待て。俺にそんな口がきけるのか?」
    11「もちろんだとも。無罪に投票したければ無罪を確信してからにしろ。有罪なら有罪でいい。正しいと思う事をしろ」
    7「こいつ」
    11「どっちだ!」
    7「言ったろ。無罪だよ」
    11「なぜ」
    7「…何もそんな…」
    11「理由を言う義務がある」
    7「有罪とは思えないから」

    7番は理由を明確に答えることができない。それもそのはず、7番の判断は戦略的なものであって内実を伴ったものではないからです。ここに「外向的思考 > 内向的感情」の心的な力関係が見て取れます。形勢がよく見抜けるのは内向直観の大局的観点の作用が働いたものです。同じTJであってもSTJはずっと実存的な存在であり、俯瞰で見渡す上空飛翔的な視点は持っていないように思います。

    形勢が有利な方につくNTJの戦略志向、3番と10番同様威圧的な振る舞いが多くみられますが、これはEJ的です。よって7番はENTJです。

    7番ENTJ。裁判を早く終わらせるため無罪派に転向。

    白状すると、私は過去にExTPの人物から強い影響を受けており、7番をExTP――即ち独自の意見を持ち、批判精神と他者を気遣うバランス感覚を有していること――と看做すことに抵抗感がありました。だからといって無理やり別のタイプに当てはめたわけでないことを追記しておきます。

    12番のタイピング

    広告代理店に勤める人間です。7番同様都会的な雰囲気があり、冗談をよく言い社交的。以下の台詞からアイデアマンでもあるようです。

    1「ではそこの方、私たちの意見に反対なさるのなら、その理由を話していただけないかな。それに反論したい」
    12「今ちょっと思いついたんだが、我々が彼を納得させたらどうだろう?」

    12「僕にちょっと名案がある。水晶玉でも覗いてみたら?」

    ジョークではありますが、自分で「名案」と言うあたり自信家であることが伺えます。自尊心の高さはEP系の特徴でもあります。EPの自尊心は他者の否定を伴わない、自己に立脚した健全なものです(IPも自尊心は高いが、IPの場合は全能感と呼んだ方が近い)。

    とは言っても、EPは慢心や過信に由来するミスには注意を払うべきでしょう。謙虚になることが課題かもしれませんね。

    議論が始まる前の雑談で以下のような台詞があります。

    12「殺人事件でよかった。障害や窃盗じゃ退屈だからね」

    人を食ったようなユーモアですが、こういう人間をオモチャにしたような言動はNTPがやりがちです。こういうことをするからよく人から怒られます。

    付け加えると、NTJの場合ナチュラルに倫理観を欠いた思想を持つことが多いです。これはNTが人間性を排斥する傾向があるからだと考えます。この点を語るのはまた別の機会に譲るとしましょう。

    ※簒奪の傾向がある。

    劇中の台詞回しから12番は発想の機転が効く知的な人間のようにも見えますが、有罪/無罪の判断を求められると途端に優柔不断になり、自分の判断をコロコロ変えます。

    3「そんなイカサマ信じないぞ」
    4「少年のナイフの使い方など断定できないね」
    8「どう思う」
    12「分からん」
    3「なぜだ!」
    12「わからん」

    4「どう思う?あんたは?」
    12「分からない。証拠が多く難しい事件で」
    4「なぜ無罪に投票した」
    12「証拠が複雑だから」
    3「他の証拠は全部捨てて女性の証言だけでいい!」
    12「私の投票は有罪に変える」

    8「可能性は?」
    3「あり得ない」
    8「あなたは?」
    12「無罪だ」

    Pの「判断の保留」は確度の高い結論を出すためには――言い方を変えれば誤った判断をしないためには――非常に重要な態度ですが、ここは責任をもって判断を下さなければならない場面です。「判断の保留」が悪く働いていると言えます。煮え切らない態度は女々しささえ感じるところです。

    自信家なところからEP、人間を弄ぶ描写からNTP、よって12番はENTPです。創作ではクレバーなキャラとして描かれがちなタイプですが、現実のENTPはこんなもんでしょう。

    12番ENTP。スマートだが判断を求められると付和雷同する。

    10番のタイピング

    工場の経営者です。これまでは登場人物の概要を述べた後でタイピングする形をとってきましたが、ここでは最初にタイピングをしてしまいましょう。印象値だけで十分それができるからです。10番はESTJです。10番は順番を無視して勝手に議論を進行させようとしたり、他人の発言を遮って自分の意見を述べることが多い。EJはこういったパワープレイ、ゴリ押し感が目立つことが少なくありません。

    10「我々はやつに何の借りもない。公正な裁判も受けさせた。それだけでもやつは幸せさ。俺たち立派な大人が事実を聞いたんだ。それでもやつを信じろというのか?俺は長年ああいう連中と暮らしてよく分かってる。ウソつきなんだ」

    「俺たち立派な大人」とありますが、こういった父性的な道徳観はESTJ的です。

    劇中の割と早い段階からそうですが、3番はスラム民へ差別感情を抱いてることがわかります。ここがこの人物の中核となるところです。なぜならこの差別感情から被告を有罪と見做しているからです。

    10「わからず屋がそろっているな。あんな不良だぜ」

    劇中の後半、無罪派が9人となり有罪派は劣勢に追い込まれます。10番は劣等機能である内向感情に駆動された結果、スラム民への剥き出しの差別感情が露呈します。ここが10番の運の尽きでした。一人、また一人と、あの軽薄な12番までもが席を立って10番に背を向け、「対話拒否」の意志を示します。

    10「わかっておらんな。細かいことなんか何の意味もない。みんなもあの少年を見たろう。あのナイフや映画の作り話を信じるのか。連中は生まれつきウソつきだ。第一真実とは何か知らんのだ。しかも連中は殺人に理由などいらんのだ。おまけに大酒飲みでいつも酔っててな、ドブで死んでるんだ。それでも誰も気にしちゃいない。凶暴だ。どこへ行く。殺しなんか平気だ。いつもケンカばかりだ。人が殺されても気にせん。そりゃいい連中もいる、それは認める。でもまともな連中は例外だ。大部分は無能な奴らさ。どうした?みんな大きな間違いを犯してる。あのガキは嘘つきだ。…聞いてくれ、連中は悪いやつらだ。…どうした、俺が話してるのに。聞けよ。ああいうガキの事をあんたたち知らんのだ。実に危険なんだよ。あの連中はね。いいかい、つまり…頼む、聞いてくれ」

    孤立した10番はここで完全にダウンします。ここをフィードバックに敏感な外向的感情と看做すことももちろん可能ですが、FJなら金八先生よろしくスラム民へ前向きな更生を求めてもいいでしょう。父性的な厳しさを優先したタイピングにしたいと思います。

    10番ESTJ。スラム民への差別感情から被告の有罪を主張。

    EJにとって自分の判断を変えることは敗北と同義なのかもしれません。

    6番のタイピング

    塗装工の労働者です。年長者への敬愛の精神があり、9番に暴言を吐いた3番に怒りを見せます。

    3「じゃなぜウソを」
    9「目立つためだ」
    3「気の利いたこと言いやがる。新聞に投書でもしろ!」
    6「そんな口はきくな。いくら何でも言いすぎだ。年寄りを尊敬しろ。またあんな口きいたら殴り倒してやる」

    この台詞から敬う想いは相当なものだと伺えます。4番のタイピングで順列に従うことは内向感覚優位の人間にとって重要な概念と述べましたが、年功序列も同等のものだと言えます。

    (とは言っていますが、こういう根拠に反例はいくらでも出せますし、こじつけと言えばこじつけです。SJが序列に従うというなら10番もそうなっていないとおかしいので)

    6「無罪だと思ってる?」
    8「可能性はある」
    6「そいつは大きな思い違いだよ。時間の無駄だね」
    8「君が被告だったら?」
    6「俺は労働者だから考え事はボスに任せてる」

    6番は自らの分際をよくわきまえています。身の丈に合った振る舞い、これもSJ的です(NJはエリート意識があり、自己認識と実際の身分に乖離があることが少なくない)。上長に従順なのはIJ的です。IJはリーダーシップを発揮するより、No.2や参謀の立場にいることが多いと思います。

    3番に向けた怒気は強いものでしたが声を荒げるものではなく、自己をコントロールした上での表出のように思います。TFの判断がつきかねますが、8番との活発化が見られなかったところから消去法でFにしましょう。ISFJです。

    6番ISFJ。年長者に強い敬愛心を持つ。

    11番のタイピング

    移民の時計職人です。最初は有罪派でしたが、8番の主張の論理的妥当性を認め割と早い段階で無罪派に転向します。以下は9番の無罪票の存在が明らかになるシーンです。1番同様フェアネスが強く、IJは固い。

    10「どういうこった」
    7「一人増えやがった」
    10「誰なんだ?知りたいな」
    11「これは無記名投票で全員同意した。投票の秘密は守ろう」

    以下は強引に話を進めようとする10番を諫めるシーン。

    11「あなたは少し礼を失している。こんな争いのために集まったわけじゃない。我々には責任がある。これが実は民主主義の素晴らしいところだ。つまり何と言えばいいのか…通告だ。郵便で通告を受けるとみんながここへ集まって、全く知らない人間の有罪無罪を決める。この評決で私たちには損も得もない。この国が強い理由はここにある。だから個人的な感情は抑えた方がいい」

    「非礼」に反応したこと、結束のために感情を抑えようとすること、どちらも外向的感情優位と看做せます。自分以外のもののために感情を抑えることは(I)FJにとっては容易いことです

    ※もっともこういう「態度」を強要するところがFJの嫌われるところでもある。

    7番から差別的な発言を受けるシーンがあります。

    5「疑問はないと思う?」
    7「ないね」
    11「失礼。”疑問”の意味がわかっているのかね?」
    7「それどういうこと?あきれたね。すぐあれだ、移民のくせに俺たちに言葉を教えるってさ。生意気だよ」

    11番はこれで閉口してしまいます。5番のタイピングでも述べましたが、Jは属性にアイデンティティを置きがちです。属性そのもので勝敗が決定してしまう場合、Jが状況を覆すのは難しい。

    以下は7番のタイピングで引用した個所と重複しますが、7番が無罪に転向した際の台詞です。

    11「確かに答えになっていない。あなたは最初みんなに同調して有罪に投票した。早く野球に行きたかったからだ。今度はうんざりしたから無罪に変えたって?」
    7「まあ聞けよ」
    11「あんた人の命をそんなに軽々しく扱えるのかね?」
    7「待て。俺にそんな口がきけるのか?」
    11「もちろんだとも。無罪に投票したければ無罪を確信してからにしろ。有罪なら有罪でいい。正しいと思う事をしろ」

    先のやり取りを踏まえれば7番への鬱憤も背後にあったかもしれませんが、11番を駆り立てているのは義憤でしょう。義憤に燃えがちなのもIJにはよくあることです。ただ、IJの義憤は公平な外向判断に基づいたものですが、身分の束縛から異なった立場を慮る余裕がないことが多く、視野狭窄な点は否めません(ex:公式の理論しか認めない、など)。EPが同程度の規範意識を持っていた場合リードされがちです。ただEPから批判されることはあっても、EPは客観的に見ておかしいことを述べているだけで、その人自身を否定しているわけではありません。自己を振り返る場としてよく耳を傾けた方がよいと思います。

    ※EPは基本他者を尊重する立場をとる。

    SN判定ですが、時計職人であるところからSとしましょう。Nにクラフト系の職人は厳しいです。11番もISFJです。

    11番ISFJ。民主主義の重要性を説く。

    3番のタイピング

    最後のタイピングです。一番最後まで有罪派として残り続けた人物です。恰幅がいい経営者で、大きい声で精力的に有罪派をリードします。

    3番のキーワードは自身の息子の存在です。

    3「近頃の子供はなっとらん。俺なんかおやじに敬語を使った。今そんな子供を見るかい?」
    8「父親は軽く見られてる」
    3「子供はいる?」
    8「3人」
    3「俺には一人。22歳だよ。9つの時ケンカから逃げた。それを見て胸がむかついた。言ってやった、お前を男に叩き直してやると。鍛えて男にした。16の時俺とケンカだ。俺のあごを殴りやがった。もう2年も会ってない。子供なんて苦労のタネさ」

    4「落ち着いて、彼は少し興奮しすぎただけだ」
    3「そりゃ興奮するさ!電気椅子送りが当然のやつだ。それが突然ぐらついた!なぜ無罪にした」

    息子の写真を見ながら感傷に浸る実際の映像を観ればもっとわかりやすいかと思いますが、3番が被告人に自分の息子を重ね合わせているのは明らかです。3番はそれを隠そうともしていない。

    劇中、INFPの8番と一触即発の関係になります。

    3「あらゆるインチキの中でもこれは傑作だよ。みんな正義の裁きを与えようと集まったのに、おとぎ話を聞いた途端涙もろい腰抜けになってさ。どうしたんだ!?奴は有罪だ、電気椅子さ!」
    8「君は死刑執行人か?」
    3「その一人だ」
    8「君がスイッチを?」
    3「入れてやるさ」
    8「よくそんな気持ちになれるもんだ。社会の復讐者を気取っているのか。個人的な憎しみで殺したいのか。サディストだ」
    3「放せ、殺してやる!」

    ここで衝突関係参照)というものを取り上げましょう。これはお互い使用する心理機能は同じですが、使う順番が全く逆という関係性になります。「衝突」という名前通り、何かと火花が飛び散りやすい関係です。

    MBTIというのは…理念として「相互理解」が掲げられがちなものだと思いますが、これは「人と人は分かり合える」ことが暗黙の前提になっているように思います。しかしタイプをよく理解すればするほど、絶望的にまで住む世界が異なる人間がいることを認識せざるを得ず、「人と人は分かり合えない」と結論付けたくなるケースもあります。

    個人の自由を尊重し、大人が手本を見せられていないから子供が駄目になるんだと主張するリベラリストのINFPと、共同体形成に尽力してきた先人たちに敬意を払い、大人としての義務を果たすことを一義とする封建的なESTJ、合うわけがありません。

    INFJの時に自分を犠牲にしてまで実現しようとするユートピアは、狩人であるESTPが突きつけるリアリズムによって瓦解しかねません。

    シリアスな状況になればなるほどふざけるINTPを、常識的なマナー意識を持つESFJが目を光らせないわけがありません。

    個人的な報酬に駆動されるISFPは、ENTJの支配的全体最適化の視座を理解することは困難でしょう。

    相手の主張を受け入れることが自己の存在否定になってしまいます。お互いがお互いの急所を突くことが容易にできてしまい、他意なしの自分の意見が相手の批判になっていることも少なくありません。お互いが自分の劣等機能を呼吸のごとく当たり前に使っており、見ているとイライラしてしまいます。自分の経験から言うことですが、この対極の存在から学べることも確かにあります。しかし相当な痛みを伴うものです。お互いが相当に成熟していない限り穏健な関係を結ぶことは難しい。

    それでも私はこの関係に価値を置きたいと思います。異なる価値観の激しいぶつかり合いに、人間のドラマを見出さずにはいられないからです。私は衝突関係の人間から礼を言われたことがありますが、不思議な感覚がありました。

    3番は最後の最後に取った「ある行為」によって被告の無罪を認めます。ある意味での精神的敗北ですが、ようやく劣等機能と和解した魂の成長のシーンとも取れます。3番のタイピングは、ここまで述べたのですからもうを論を俟たないでしょう。ESTJです。

    3番ESTJ。被告人に自分の息子を重ね合わせる。

    3番は頑なに判断を変えようとしない狷介な人物として描かれますが、個人評を言えば(もっともこのブログのすべてが個人評だが)私はあまり3番を悪い人間だとは思えません。アンビバレントな感情を抱える姿に”人間”味を感じるからです。同じTであってもここがNTとはちがうところです

    ※「STは人の心を持ったロボット」

    息子への愛はあると思います。ただその表現が不器用というだけです。

    エンディングまで迎えた後もう一度映画を振り返ってみれば、3番は自分を欺いていたことがわかります。遥か地平の彼方で脈動している、劣等機能への遠さよ。そこに辿り着くまでの道程で、私たちはいくつの挫折を経験するのか。

    3「俺には何の個人的感情もない」

    以上、十二人の怒れる男たちのタイピングでした。

  • レオリオのタイプを考える

    レオリオのタイプを考える

    ※この記事は過去別媒体に投稿した記事をリライトしたものです。

    PDBでもキャラクター診断サイトでもレオリオはESFJということになっているが、僕は違うと思う。レオリオのタイプを考えてみよう。

    このキャラクターを考察するうえで重要となるキーワードはである。レオリオはある出来事がきっかけで金に非常に強い関心を持つようになった。詳細は後述するが、ハンターになる動機も金が絡んでいる。ヨークシンシティ編で巧みに品物を値切ったり、条件競売で闇側の人間をおびき寄せるため布石を打つなど、商才もある模様である。

    貨幣が大きな意味や価値を持ち、それが世界をコントロールしている。やや乱暴な意訳かもしれないが、この考え方を資本主義とみなすことにそう違和感はないと思う。そしてこれは外向的思考機能に属する概念である、というのが僕のMBTIの応用的活用の一つ。前記事で心理機能は近似概念を何でも放り込めるバケツのようなものと表現したが、各心理機能(ここでは「覗こう」での説明文を参照)のキーワード群から考えて最も「金」に近似している機能は外向的思考機能だろう。「覗こう」の外向的思考機能の説明文では「金」「資本」という言葉は一度も使われていない。せいぜい「自他共に”利益”をもたらし」くらいだ。その利益という抽象概念を現実的な存在に落とし込んだ一つの例が「金」「資本」というわけである(まあ「賞与」という言葉は使われてるんだけど)。

    本質志向の人は抽象度を落とす表現を好まないかもしれないが、金に動機づけられる人間は現実の其処此処に存在の確認ができるのだし、自分としては結構有効な判断基準じゃないかなと思っている。これはもちろんその他の判断機能を優位とするTP系やFJ系が金を判断基準としない、ということを言っているのではない。彼らだってもちろん金のことは意識するが、意思決定や動機づけの観点においてそれの優先順位があまり高くないということだ。違う言い方をすると、金よりも重要な判断基準があるということである。

    またレオリオは(特に市場に対して)情報通という面もある。サザンピースの競売ではゴンとキルアの案内役を務めた。また高機能な携帯電話を知っており2人に購入を勧めた。新聞を読んでいるシーンもあり、ハンター試験で殺し屋のジョネスを知っていたのもレオリオだった。「ニュース」にアンテナを張っているのも外向的思考機能の要素であると思う。

    よってレオリオは外向的思考機能を判断機能として持つタイプ、すなわちTJFPである、という事が言える。

    外向的思考機能が作用しているシーンだけ切り取るとTJだと思ってしまうかもしれないが、このキャラクターが感情的になることに躊躇しないパーソナリティであることは、漫画を一読すればすぐにわかるだろう。冷静になっているシーンの方が少ないくらいである。しかしながら感情的になりやすいという理由でFにしてしまうのも少し浅慮のように思う。言うまでもなくTだって感情的になることぐらいはあるだろう。

    迷うところではあるが、レオリオはFであると思われる。決め手になったシーンは、ハンター試験会場にたどり着く前の、キリコ(魔獣)との戦闘。レオリオはキリコに傷つけられた人間を看病する。実はこの人間の正体はキリコで、一連の戦闘はハンター試験の一環だと種明かしをする。

    その時、キリコはレオリオのことを以下のように評価した。

    「そしてなにより」とある。応急処置の的確さよりも励ましの言葉をかけるF的要素の方が印象に残ったのだろう。これはF機能がレオリオのストレングスとして働いていると考えることができる。よってレオリオはF、先ほどの資本主義の考察を合わせれば、外向的思考機能を持つF型となり、FPとなる(ただよく見るとレオリオはF面の評価に気恥ずかしさを感じており、ここはT的と言えるかもしれない)。

    あと僕のタイプはINFJだが、感覚的にレオリオが自分と同じFJだとはあまり思えない。ちなみにこの漫画で外向的感情機能が優位に働いていると思うキャラクターは、パクノダ、センリツ、ウイング、ナックルである。

    ※この記事を書いた当初センリツはFe優位として見ていたが、今回改めて読み直したところ、基本的な態度からJの厳格さが読み取れず、また嘘つき者に対して精神的優位に立っているところから、INFPに変更しました。

    また、TFラインの判断がつきかねる場合、男性ならF型で女性ならT型である、ということが多いと思う。それぞれの性に期待される役割という意味のジェンダーロールという概念があるが、Tは男性の、Fには女性のそれが課せられる。男性Fと女性Tは社会化にあたり逆の判断機能の活用が余儀なくされ、それがストレスになったり、適切な自己理解が困難になったりするのではないだろうか。男性Tと女性Fはジェンダーロールに則ることに躊躇がなく、典型例になりやすい。よってTFラインのタイピングに迷うことが少ない。

    外向/内向に関してだが、シンプルに外界に対し多くのリソースを割くのが外向型、内界に対してそうなるのが内向型として、レオリオが前者に当たるのにそう議論の余地はないように思われる。ここまでの説明でレオリオのタイプはExFPとなる。

    さて、いくつかレオリオのパーソナリティの特徴を挙げたが、実はいずれもこのキャラクターを語る上での重要な部分だと僕は考えていない。これらは枝葉でしかなく、核となるのは冒頭でも少し触れた、ハンター試験に臨む動機付けの部分である。

    ここで主要キャラクターの4人それぞれのハンターを目指す動機を見てみる。

    ゴン

    「オレは親父が魅せられた仕事がどんなものかやってみたくなったんだ」
    「オレの親父がハンターをやってるんだ。親父みたいなハンターになるのが目標だよ」
    「ただカイトは自分のことみたく自慢げにとてもうれしそうに話してくれた。それを見て思ったんだ。オレも親父みたいなハンターになりたいって」
    作中にあるゴンのセリフである。シンプルに父親に追随することがモチベーションである。これに表も裏もなく、4人の中では一番分かりやすいと思う。

    キルア

    「オレ?別にハンターになんかなりたくないよ。ものすごい難関だって言われてるから面白そうだと思っただけさ。でも拍子抜けだな」
    「オレん家暗殺稼業なんだよね。家族ぜーんぶ。そん中でもオレすげー期待されているらしくてさー。でもさ、オレやなんだよね。人にレールしかれる人生ってやつ?」
    「別になりたかったわけじゃないよ。ただなんとなく受けてみただけさ」
    キルアはゲーム感覚でハンター試験に臨んでおり、他の3人のように強い熱意やこだわりがあるという訳ではない。実際(1回目の)ハンター試験は自ら反則をして失格となった(イルミのマインドコントロールの影響もあろうが)。家業を継ぐことへの反発心はあるが、そこまでシリアスに考えているわけでもなさそうである。

    クラピカ

    クラピカは賞金首狩り(ブラックリストハント)志望であり、同胞のクルタ族を皆殺しにし、緋の眼を奪った幻影旅団を捕まえるためにハンターになろうとしている。ハンターでなければ入手できない情報やできない行動があり、少しでも幻影旅団を捕まえられるようハンターを目指す。富豪の契約ハンターになればブラックマーケットの情報も引き出せ、奪われた緋の眼にも近づける。契約ハンターは小金目当ての飼い犬であり、誇り高いクラピカが嫌う存在でもあるが、クラピカは「私の誇りなど仲間の苦しみに比べれば意味のない」と言う。プライドを捨ててまで契約ハンターになろうとしていることから、そうとう強い意志を持ってハンターに目指していることが窺える。

    4人の中では一番目的が具体的である。

    レオリオ

    そしてレオリオである。一見大雑把な人物に見えるかもしれないが、実はクラピカと同等のシリアスな動機でこの試験に臨んでおり、さらにクラピカ以上の複雑な心理作用が働いている。

    まず、ハンター試験会場で船長からハンターを目指す動機を問われたとき、レオリオは以下のように答えた。

    それにしてもここまで「品性のない顔」を表現できるのはすごいと思う。

    これを聞いたクラピカは「品性は金で買えないよ」と言い放ち、二人は決闘するまでに至ってしまう。ゴンの突飛な行動によって和解したが、少なくともクラピカは最初、レオリオの言葉を真に受けて、金の亡者だと判断したはずだ。

    ところがマラソンでの試験中に、クラピカはレオリオに以下のように言った。

    ハンターになりたいのは本当に金目当てか?違うな。ほんの数日のつきあいだがその位はわかる。確かにお前は態度は軽薄で頭も悪い。だが決して底が浅いとは思わない。金もうけだけが生きがいの人間は何人も見てきたがお前はそいつらとは違うよ。

    ハンター試験会場を目指す道中で、クラピカはレオリオの評価を変えたのである。表面上は金金金と言ってはいるが、どうもそれだけの人間ではないらしい。そう思うようになったのだ。レオリオへの見方が変わった、と表現されているであろうシーンは一か所ある。それはレオリオとの決闘時、飛んできた木材に弾き飛ばされた船員が海に投げ落とされるシーン。

    一目散に船員を助けに行くレオリオを見て、ハッとするクラピカ。実に意外な行動だと思ったのだろう。他にも、ドキドキ2択クイズで正解のない答えに本気で怒ったところや、先述のキリコの看病の部分などを見て、レオリオへの「金の亡者」という評価を払拭するに至ったのだと思う。

    クラピカはレオリオにハンターを目指す真の動機を聞き出そうとするが、レオリオは頑なに自分の目的は金でしかないという。「人の命だって金次第」とまで言い放つレオリオに、クラピカはまたしても激昂する。クラピカの怒りにつられて、レオリオはつい口を滑らせてしまった。うっかり話してしまったことに真実が含まれていた。

    決して治らない病気じゃなかった!!問題は法外な手術代さ!!オレは単純だからな、医者になろうと思ったぜ。ダチと同じ病気の子供を治して”金なんかいらねェ”ってそのコの親に言ってやるのがオレの夢だった。笑い話だぜ!!そんな医者になるためにはさらに見たこともねェ大金がいるそうだ!!わかったか!?金、金、金だ!!オレは金が欲しいんだよ。

    レオリオは過去に友達を病気で失っていた。その時に金さえあれば友達を救うことができたが、金なんてなかったから、友達は死んだ。だから医者になって、友達と同じ病気の子供を治してやりたいと思ったけど、医者になるのにも金が必要だった……レオリオがハンターを目指すのはこういう背景があったのだ。

    一読すると、レオリオは医者になるためにハンターを目指していると思うかもしれないが、実はそうではない。上述のセリフでレオリオは「夢だった」と言っており、レルート戦でも「これでも医者志望だったんでな」と言っている。過去形、つまりもう医者は目指していないのだ。金がないことへの無力感を二度も味わってしまい、夢を見る気力さえも失ってしまった。じゃあなぜハンターを目指しているのか、それはレオリオ自身が発する言葉の通り、金が欲しいからだ。しかしそれは大金持ちになって車や家を買ったりすることが目的なのではなく、己の始原の傷を癒すためだ。金がモノをいう資本主義に打ちのめされたレオリオは、金を手にすることにより今の自分の苦しみから解放されたいと思っている。その金を使ってどうしたいなどの具体的な使い道はない。医者になる夢はとうにあきらめている。ただただ金が欲しい。

    NはSに比べて、過去に起こった出来事や、起こってもいない未来に囚われやすい。Sが一晩寝れば忘れることをNはいつまでも引っ張って、不意にそれらがフラッシュバックする。

    レオリオは過去に囚われた人間であり、金を得ることでその囚われから逃れたいと思っている。自分を救うことが目的なのであり、なんだかそれはNFのマインドのように感じる。レオリオが語った夢「ダチと同じ病気の子供を治して”金なんかいらねェ”ってそのコの親に言ってやるのがオレの夢だった」にしても、結局のところ過去の無力感を味わった自分に対して発しているのだ。友達が病気になって死にそうになっている状況で、「金なんか要らねェ」と言って治してくれる医者が現れていれば、レオリオは無力感を味わわずに済んだのだから。

    レオリオがハンターになる動機は金であり、それは本心であるが、所詮世の中は金なんだよと語るのは複雑な心理作用がある。金がなかったことによる無力感と絶望の反動によるものであり、偽悪的に資本主義を説くところにこのキャラクターの深みがある。

    クラピカもまた過去に囚われるN型だ。そんなNに「ダルい生き方」と言うバショウはS的な感性を持っているといえるだろう。

    レオリオの「夢を語った」というところもNF判定ポイントである。僕のリアルでの話になるが、職場に新しく配属された課長が自己紹介の時に、それを夢と言ったのか目標と言ったのか覚えていないが、「ここを世界一働きやすい職場にする」と言ったのを覚えている(日本一だったかも)。なんだか地に足がついていないような目標設定で、NFっぽいなと思った。

    以上、前半で説明したExFP判定と、後半でのNF判定により、レオリオはENFPである、というのが僕の結論となります。

    クラピカはレオリオに動機を聞いた時、「本当の目的は金ではない」という返答を期待していたはずだ。しかし、レオリオが口にしたのは金でしかなかった。レオリオは本当に金だけが欲しくてハンターになろうとしていたのだ。金儲けだけが生きがいの人間を嫌うクラピカにとって、それは納得がいく答えだったのだろうか?レオリオの自己開示を受け、クラピカは何を思い、何を感じたのか。それを知るヒントは、小さい一コマに描かれたクラピカの表情にある。その内心を正確に表現するには、僕の文章力では手に余る。

    本記事を書くにあたって下記サイトの考察を参考にしました。

    レオリオは医者志望ではない

  • MBTIの応用的活用、及び2025年時点の概観

    2025年現在において、SNS上でのMBTIの情報は錯綜しきっていると思う。バズりの置きどころを心得たインフルエンサーの拡散性が高いだけで毒にも薬にもならないタイプ考察もさることながら、ネットの集合知から形成したイメージ先行の山勘による考察、インプレッションの稼ぎどころとここぞとばかりにタイムラインで流行っているネットミームにかこつけて行うネタ投稿、批判を恐れて前もって「偏見」と付けて発信する個人的印象論、名乗りさえすれば誰でも名乗れる自称講師による魔改造キメラ理論、卓越したセルフブランディング能力により理想の自己像を演出するメンター気取りの人間、16Personalitiesのキャラクターのカプ厨イラストや恋愛の相性論に熱狂するが実際には恋に恋しているだけの恋愛の土俵には立てていない者、SNS上のアバターとして16Perのキャラを選択するも完全にキャラになり切れず時折垣間見える本人の地から感じる違和感、早まった判断でミスタイプを犯し当人も内心違和感に気づいているがフォロワーからそのタイプとして認知されてしまっているので引っ込みがつかなくなっている者、自己理解を放棄して自認タイプを不問とする安全地帯に居座りながら人間観察を行う者、エトセトラエトセトラと、例を挙げれば枚挙にいとまがないというか、自分でも何を言っているのかよく分からなくなってきたのでこの辺りで止めるが、とにかく、玉石混交とは言うが、あまりにも俗世的な扱われ方をされ過ぎて、玉より石の方が大分多くないか、という所感である。ちょっと自分の空想が入っている気がしなくもないが(これらのMBTI活用はひとつの「波」のように感じていて、個人の力ではもうどうしようもなくなってきているように思う)。

    このような情報源が無数にあり増殖をし続ける煩雑した状況下では、公式のMBTI協会の信頼度は相対的に向上しているのかもしれない。一体どこの情報が正しいのか路頭に迷うユーザーが出てきてもおかしくないからだ。しかしながら公式は公式でカルトみたいだとか情弱ビジネスであるなどの批判も散見される。あと公式を受講して一度はタイプを決めたものの、その後に自認タイプを変更しているアカウントが存在したことがある。このことから公式さえ受講すれば自認タイプがはっきりと決まるというわけでもあるまい。公式に依拠した者は他流派への排他的姿勢が見られるが、排他の対象は自分の批判対象と重なるところがあり、僕は彼らと正しさの基準が異なっているだけで本質的には似たような存在だとも思うが、後に説明するMBTIの応用的活用の都合上相互理解は難しい存在となる。

    「一体何が正しいのか」というのはいかにも判断型の人間―つまりJだが―の在り方である。僕も判断型の人間なのでここで何かしらの正しさの基準を示したいという思惑がある。結論から言ってしまえば自分の見立てが正しいと思っているが、これは自分の主観的認知を第一の基準とした独善的な価値観というわけではない。一体どういうことなのか説明したいところだが、何かと準備がいる。差し当たっては、当ブログ及び管理人が一体何を基準にしてMBTIを語っているのか、どういった道程を辿ってきたかの説明をしたいと思う。

    はじめにでも書いたが、僕は2018年のころにユング心理学を知ったがこれは河合隼雄氏のユング入門書に依る。河合氏の文章は易しい文体で、僕のような頭があまり良くない人間でも最後まで読むことができたので、本を読む習慣がない人にも勧めることができる著者でもある。ユングの思想は夢や無意識、イメージが中核としてあり、マンダラの研究や錬金術、あと布置とかいう色々な現象を星座に見立てるような考えもあったかな、そういうオカルトに傾倒した面はあるにせよ(あるENTJは「科学が発達していない時代故に暴走した感はある」と評していた)、ご存じタイプ論を始め心理機能や集合的無意識などの神秘性を感じる概念も多々あり、またユング自身東洋思想を深めていたようだが、ユング心理学全般に部分よりも全体の調和を重視するかのような東洋的人間観が漂っているようにも感じて、西洋的及び科学的態度にうまく馴染めない自分の感性にもよくフィットした。ユングの恩師に当たるフロイトにも学ぶべきところはあり、特に防衛機制は一時期夢中になって調べたほどだが、いささか断定的なニュアンスを感じるところもあり、フロイトよりユングの方に親しみやすさを感じた。

    言うまでもないことだが、ユングが提唱した概念の中で僕が最も惹かれたのはタイプ論とそれに付随する心理機能である。心理機能は近似概念をまとめて放り込めるバケツのようなものだと僕は理解しているが、一つの機能を「外/内」で二分し、対となる機能をシーソーのような関係に落とし込んだのが見事である。外向的思考機能が活発に作用している人間ほど、内向的感情機能が脆弱になるということは、二つの機能を(理論上)持っていない僕でさえも、かなり直観的に理解することができた(ここに関しては「軸」という表現をするユーザーも見受けられる)。それぞれの心理機能を主機能にした8つのタイプは(ユングが提唱したタイプ数は8である)、各心理機能を理解すれば容易に存在を認識することができたし、「こういう人たちは確かにいる」と思えたことがすごかった。自分の主機能に関しては内向直観の説明「心象の世界をさまよい歩く」という記述で一発でわかってしまった。この時20代後半であったが、それまでの人生本当にそういうことしかしてこなかったのである。

    古今東西の神話に共通して現れるイメージの元型という概念も興味深く、これは派生形のMBTIの各タイプ像も似たようなものなのではないだろうか。ESTJは軍人、INFJならシャーマンやイタコってところか。これらの元型に合致する人間が確かに太古から存在していたと思う。元型の一つとして老賢者(オールドワイズマン)という、円熟した知性と哲学を持ち物語の登場人物らを成長へと導く父性的存在があるが、晩年のユングの肖像はまさに老賢者たる風貌をしていると思う。あとこの老賢者、自分は10代のころテレビゲームのRPGをよく嗜んだが、剣と魔法を扱う中世の世界でこの老賢者に匹敵するキャラクターは偏在していた。

    河合氏の入門書に書かれてあったことだと思うがユングは内向直観型の人間であるという評があり、そうだろうなと自分も思う。ユングのもとに集った人間たちも内向直観型が多かったらしい。自分も内向直観の人間故に、ユングが提唱した集合的無意識や元型論にも感覚的直観的理解が容易くできたのだと思う。

    というようなことを書いているが、実のところ僕はユングに関しては河合氏の著作を介してでしか知らず、ユング当人の著作はほとんど読んでいない。唯一読んだことがあるのはみすず書房刊行の「タイプ論」で、タイトルから期待できる通りより本格的な類型論の理解を臨んで読み始めたのだが、あまりにも難解かつタイプや心理機能の話がいつまでたっても現れないという内容だったので、途中で投げてしまった。河合氏の入門書で満足してしまったというのもあり、本人の著作にそれ以上踏み込もうとは思わなかった。河合氏の紹介ででしかユングを知れていないので、実際のところのユングのパーソナリティに近づけていない可能性もある。青土社刊行の「ユングをめぐる女性たち」は読んだが、それによればユングは女性から理解されユング自身もまた女性を理解する才能があったらしい。自分のクライアントと愛人関係を結んでしまっているが、妻のエンマ・ユングはこれを公認していたようである。

    余談ではあるが、漫画家の赤塚不二夫も似たようなエピソードがある。赤塚は二度結婚しているが、二回目の結婚の保証人を前妻が受け持っている。

    当記事を書くにあたりユングの女性遍歴を調べていたところ、精神科医の斎藤環氏による批判(最後の方) を見つけたのだが、本人の感情がだだ洩れの文章であり、斎藤氏のジェラシー込みの評論という感は否めない。ここに書かれてあるユングの諸所のエピソードが事実であったとしても、もっとフラットな語り口での批判は当然存在し得るだろうし、意訳はユングの聖職者然としたイメージを上書きするかのように世俗感を強調した恣意的なものに見える。まあ「ちょっと羨望のこもったイヤミを言わせてもらえるなら」とあるから自覚はあるのだと思う。ただこういったエピソード抜きにユングを「魂の医者」呼ばわりするのは神格化だし、こういう指摘も必要なのかもしれない。先述の老賢者の風貌云々も神格化にあたってしまうだろう。ガンジーなんかも聖人扱いされているが、禁欲主義を打ち立てたのにもかかわらず晩年は裸の女性とベットで寝ていたなんてエピソードもある。ガンジーもユングも一人の人間なのだ。

    閑話休題。そうした読書体験を経て覚えたユング関連のワードをインターネットで検索して、たどり着いたのが「MBTI性格タイプ論の視点から世界を覗こう」という個人が制作したサイトだった(以下「覗こう」と略記する)。MBTIの概要と理論を紹介しているサイトであったが、とにかく一つ一つの説明が神懸かり的な完成度をほこっており、ユングを知った時以上の衝撃があった。どこかのタイプの説明で「800年後の地球においては」みたいな表現があり、通常であればただのスピッた人間だろうと看過するところだが、これほど神秘的なテキストを目の当たりにすると、本当に何か常人には見えないものが見えているのではないかと感じられ、一体どういう人生経験を経たらこういう人間観を持てるようになるのかと思った。もちろんその人間観はMBTIの理論を土台にしたものだが、テキストにはサイト制作者の熱意があふれているし、ただMBTIの理論を承認欲しさで紹介しているわけではないことは明白で、内発的な動機でこれほどのテキストを書ける情熱を持つ製作者の存在に感銘を受けた。とにかく僕は「覗こう」のテキストを端から端まで読み、(「覗こう」で紹介されている)MBTIをインストールした。ユングの8類型は優勢機能と劣等機能にしか着目していないものだったが、16類型に拡張したMBTIは優勢と劣等の間にある2つの機能も考慮したもので、各タイプが外向と内向を反転しながら使用する心理機能のフローは、各心理機能の定義と機能の強さ(成熟度)を照らし合わせながら解釈すると、行動原理の理由づけにかなりの部分で符合するものがあると感じ、革新的な類型論だと思った。ユングのタイプ論の紹介で「こういう人たちは確かにいる」と書いたが、MBTIを知ったことでさらにその気持ちが強まった。というより、この16タイプに分類できるような人たちがいることを自分は以前からなんとなく知っていて、MBTIによってその「なんとなく」の輪郭がはっきりとしてしまった、という感じだろうか。

    現在このサイトは閉鎖しているが、wiki、或いはアーカイブに保存されたページでテキストを参照することができる。アーカイブに保存されたトップページを見ると、サイト設立は2015年のようである。「2015年の時点では、日本においては、MBTIの認知度は低いようですが」とある。多分ではあるがこの2015年を皮切りにして「覗こう」を元にMBTIを知ったものがふつふつと湧きはじめ、X(当時はTwitterだったが)で徐々にクラスタが自然と形成されていったように思われる。

    このサイトに感化された人間はやはり僕以外にもいるようである。ブログを一つ見つけたので紹介しておく。

    僕がTwiterを始めたのも2018年のあたりだ。最初はMBTIでのつながりを目的にしてはいなかったが、「覗こう」を知ったあたりでタイプをbioに載せるようになって、同様のことをしているアカウントをフォローしていった。「覗こう」が2015年に設立されていたとはいえまだMBTIは世間に全然浸透していなかった。その内DiscordでMBTIのサーバーを設立する者も出始め、そこでユーザー同士で会話をしたりしていた(まだTwitterにスペースが実装されていなかった頃の話である)。

    そんな風にTwitterを使っているうちに、数人の強烈な個性を持ったユーザーと出会った。彼らに共通していたのは、MBTIのフレームに自分独自の哲学を組み込んで、どこのサイトにも書籍にも載っていない考察を発信していたことである。彼らの言っていることすべてに賛同したり理解できていたわけではないが、直観的に納得できるところの方がかなり多く、一体どうやったらそのような認識に至れるのか、まったくもって不可解だった。大半のユーザーが自認タイプの真理らしい真理を掴みかねている中で、彼らは理由を添えてはっきりとタイピングしていたし、それが恐ろしいまでに観察眼に富んだ内容だったので、仰天してしまったのである。苛烈なパーソナリティを携えていたことも共通項で、手厳しいこともかなり言われたが、自分の存在のヌルさを実感できた本当に貴重な経験だったと思う。彼らとの交流で新しいMBTIが「拓けた」と言ってもよく、特定タイプへのイメージの「刷新」が起こったことは、僕にとって特別な意味経験だった。彼らの影響により、どうやら各タイプにはどこにも書かれていないような特徴があるらしい、と僕は思うようになり、自分もそれらを見つけていこうと感化され、今に至るのである。これらの交流が起こったのが2019、2020年あたりの話になる。

    以上の話を踏まえると、僕のMBTIは以下の4つの要素で構成されていることになる。

    1. 河合隼雄氏のユング関連の書籍
    2. 「覗こう」のテキスト
    3. ユーザーとの交流
    4. 自分独自の二次的理解

    4は3の影響下によるところが大きい。そして当ブログでは、この二次的理解をMBTIの応用的活用法として推奨する立場をとる。なぜならこの応用的活用には、その応用する者の学習の軌跡や、認知能力、および世界観構成が反映されたもので、大変面白いからだ(言ってみれば「覗こう」もまた応用的活用の産物だった)。定義を元に結論を出す推論を演繹法と呼ぶが、これによって導き出されるものは既に知っていることなので、当事者にとって情報量が増えていない。応用的活用は帰納法による推論である。帰納法によって新しく見出した発見こそが、当事者の当事者だけの二次的理解となる。その発見がたとえ僕の二次的理解とは異なっていても、個人の学習体験として僕はそれを尊重する…というよりも、充分な観察と熟慮を経た二次的理解は、他者の二次的理解と同様の見解に到達することが決して少なくない。これは僕が他者の二次的理解に触れ、そのような経験を血肉にしているからこそ言えることだ。この理念には確信がある。

    理由を付けた他者のタイピングも応用的活用の一環に当たる。なんとなくの当て勘でタイピングするのは容易いが、根拠を添えるとなると独自の哲学が必要になる。また第三者のタイピングはコミュニケーション上の問題(自認タイプを相手からどう思われるか、どう思わせたいかなど)が発生しないので、タイプへの純粋な議論ができるはずだ。優れたタイピングはタイピングされる者の今まで知り得なかった一面を知ることができる、そしてそれはタイピングする者のフィルターを通した結果なので、タイピングする者の一面でもあるのだ。できるだけ実在の人間をタイピングするのが望ましいがこれは難しいので、最初は二次元のキャラクターでも良いと思う。その際は非実在青年であることを念頭に置き、リアリティに欠ける誇張された表現は捨象する必要がある。基本的には動機に着目するのが良いと思う。

    ただあまりにも独自の考察を深め、誰とも共感できない個人的イメージを強化しているのも、虚空に向けて独りブツブツと発言しているようで少し危なく感じる。適宜他者からのフィードバックは必要だろう。

    こういう応用的活用は一次理論を重視するユーザーと軋轢が発生するかもしれない。そもそもそういうユーザーはこのブログの理念自体をMBTIを歪めるものとして共感はしないと思う。公式に依拠する者から「自分のタイプは自分にしか分からない」という言を聞くことがあるが、その観点から言えば先に述べた他者のタイピングはナンセンスな話なのだ。ただこの理屈は、公式受講者を特権的な立場に置く作用があると思うし、自分より高度でより発達した精神構造を持つ人間を想定できていないし(上位の人間からは容易に見透かされるものだ)、他人の自我を無視した閉塞感のある考え方だと思うし、単に自分を知られたくないことの言い換えのようにも思う。他者の認知を通した自己というのも一つの自己であり、「自分のタイプは自分にしか分からない」という理屈は他者の認知を棄却している。ここには他者軽視がある。当ブログはこの考え方には対抗する存在である。また僕の応用的活用は大分批判的な内容も含まれるので、自己批判できない人間からも歓迎されないと思う。精神が未熟だとクリティカルな批判に耐えられない。耳が痛い批判から自我を守る時に出てくる言葉が「それはタイプとは関係なくその人個人の問題」だ。この言葉が出た後に何がタイプに関係して何が関係しないのかが議論されているのを見たことがないので、お茶を濁す以上の意義はないと思う。僕はそういう人たちへわざわざ角が立たないように配慮した表現はしたくない。元々このブログは昨今のMBTIの扱われ方が気に入らな過ぎて始めたところがあるのだから。

    ただ、僕は他人へ発破をかける気質がある人間だと思うし、そういう意志を持つ者が何も考えず過度な批判をしてしまうと、下手するとマインドコントロールを招く結果にもなりかねない。自分の影響力を過信していると思われるかもしれないが、はっきり言ってしまえば、MBTIをインストールした人間相手に限ってだが、それくらいのことはできてしまう程度の二次的理解はしていると思う。ただそういうことはあまりよろしくないと思うので、表現の調整は都度行っていくと思う。ここは僕の内向判断と外向判断のジレンマでもある。

    公式と16Personalitiesにも言及しておく。先に述べた自分のMBTIの構成の通り、僕は公式と冠せられた何某かから特段の影響を受けていない。公式の知名度が上がる以前に自己をタイピングできてしまったので、特にお世話になる必要がなかったのである。そういう自分からすると公式に特別なブランド力は感じておらず、これは自分と同じような道程を踏んだ人も同じ認識でいるのではないか思う。公式のテキストを読みはしたが大体が既知の内容で、取り立てて認識の更新は起こらなかった。言ってみればそれまでの自分の意味経験、学習内容に優るものではなかったのである。といっても公式のテキストは僕がインストールした「覗こう」の内容と大枠は変わらないので、そこまで異論があるというわけではない。ただいくつか言わせてもらうと、公式は第三機能の外向と内向の意識の方向を不問としているが、なぜそうしているのかの説明がどこにも書かれていなかった。特段そうする理由がなければ、外向と内向を交互に使用するフローを採用した方が良いと思う(これは第二-第三機能間におけるジレンマという観点から述べているのだが、詳細は別記事にて書く予定)。あと8つの機能に関しては「心理機能」という名称で定着していると思うが、公式は「心的機能」となっている。名称など何でもいいと思うが、公式のテキストではそれぞれの機能の説明に乏しく、これらに関しては明らかに「覗こう」やその他諸々のサイトの方が充実した内容になっている。この状況で「心的機能」という表現を用いるのは、当人が公式に依拠している立場であることを示す以上の意味はない。

    テキストにだけ言及しているが実際の受講は講師によるセッションというのがある。これに関しては「やってもないのになぜ批判できるのか」という意見にはグゥの音も出ないので、特に言えることはない。ただ、これは慎重に発言したいところだが、公式の受講は費用と時間がかかり、対価が発生する以上サンクコストのバイアスがかかる可能性が否定できない。公式は間違っているという意見を認めてしまうと、受講した自分の経験も間違いとなり、支払った対価も無駄ということになる。そうは思いたくないから余計に公式の価値を強化し、排斥的になる。このスパイラルは結構笑えない状況だ。体験そのものに価値が見いだせていれば別だが、タイピングの正しさの保証を求めている場合は…特に何の対価もなしに自己をタイピングできてしまった僕はそう思ってしまう。まあある程度の判断力が身についた今だからこそこういうことが言えるのだが。自分が20歳前後の時に今のような状況下であれば、自分もまた公式に資金と時間を費やしていたと思うのだ。

    16perに関しては、これも色々とややこしい状況下にあり記述するのが難しいが、2025年の現在においては16perのキャッチーなアイコンがZ世代から創作のネタとしてウケまくり、各タイプの非実在青年化の加速に寄与していることは否めない。じゃあ僕は16perに批判的な立場かと言えば、あんまりそうではない。16perは2011年から存在するようだが、記憶をたどれば2018年のころ、自認タイプを検討するうえで自分は16perの診断結果を参考にしたからだ。別に16perの設問の出来が悪いとも思わないし、ここでの診断結果がまったくのデタラメだとも思わない。「キャラクターとして誇張して描かれている」という批判を見たことがあるが、本当にそうだろうか?各タイプの説明文を見ても、「[任意の大物職業]に俺はなる!」みたいな人物は描かれていないし、紹介されている各タイプの著名人はどれも実在の人物でアニメキャラはどこにもいない。キャラクターとして誇張させているのはむしろユーザーの方である(NTを秘密結社に集う人間に見立てたりとかな)。

    じゃあZ世代が批判対象となるかと言えばこれも違う。なんかこうなっちゃうのはもう仕方がないことだと思うのだ。MBTIに限らずパーソナリティに関する記述は大体がそうだと思うが、判断力が養われていないうちは説明文からの逆算による自己理解が起こる。MBTIは精度が高い類型論だと思うし、逆算が必ず問題を含んでいるというわけでもないが、理想の自己像を強く持つ人間はいるもので、その辺りに自覚的でないと容易に誤ったタイプを自認として選択してしまう(個人的所感としてはENTPへのミスタイプが多いと思う。知的に皮肉を言うキャラでかっこいいしね。これはもう通過儀礼のようなものなのではないか)。ただタイピングをミスっているだけなら本人の問題でしかないが、SNSの発達によって正確な自己理解をしていない者が正確でない自己イメージを世界に投入できるようになって、他者のタイプ認識にも影響を及ぼすようになった。それが今なんじゃないだろうか。個人サイトや匿名掲示板しかなければ今のような流れにはなっていないだろう。

    結局のところ僕はMBTIが青年期の課題解決としてではなく、各タイプがなりきりのガワとして消費され非実在性が加速してゆく現象に辟易している(少なくとも僕はそういう現象があるように認識している)。そういうムーヴメントを積極的に起こそうとする者が批判対象になる。真剣にやろうとしている人でも論争までして意思表明する人はそういないから、そういう人も結局エンタメの波に飲まれて黙殺する。「エンタメとして楽しむことの何が悪い」という意見もあるだろう。そういった人たちはプロフィールに「エンタメ勢」と標榜していることが多いと思うが、この行為の狙いはいい加減なことを言ったときに真剣に利用しているユーザーから批判が起こることを防ぐことにある。彼らは真剣になることから逃げているだけである。もっともMBTI自体がある種の逃避というか、現実世界からのセーフティネットとして機能していた時期もあったと思うが、自分のリアルな体験にそれなりに根差して省みていたと思う。けど今はそうじゃなくなってる。特に問題なく現実社会に適応している人間までも活用するようになった。だからタイプのペルソナ運用もまかり通ってしまう。

    まあ公式だろうが16perだろうが、それが真摯な自己理解に活かせるのであればそれはそれで構わないが、最終的にはメタ認知を捨てきった状況での腹から出た言動こそが判断材料になると思う。猫も杓子もポリコレまみれでどうやって本気になれっていうんだと自分で思うが、このブログがそういう空気に少しでも対抗できる土壌生成に資することを願う。現実社会ベースのコミュニケーションルールの一切を殺し、自己認識の甘いミスタイプ者を晒し上げ、互いの心理的矛盾を突き合うある意味で地獄のような地平こそが僕にとってのユートピアなのだ。なんつってな(申し遅れましたが当方INFJです)。

    色々書いたが、記憶の美化というか、ごく個人的な体験をコミュニティのありふれた現象にまで一般化した記述をしてしまったかもしれない。白状すれば僕自身ネタのような投稿はしていた。ただ以前と空気は確実に変わっちゃってるし、そういう空気に飲まれてタイプ名を名乗りたくないなんてのは、この類型論に助けられた者として嫌すぎる。ただこういう問題意識もどれほど他人と共有できるのかわからない。何か思うことがあればコメントしていただければ幸いです。判断型の人間の在り方はとかく分断を生みがちで、このブログもまたそういう気質を孕んでいると思います。ただ性格なんて変えられないのでしょうがないです。

    誤った自己認識のままビジネス展開を始めてしまった者もいる。僕にとってはまったくもって忌々しい連中だが、そいつらだって自分の人生賭けてやってるんだし、違和感を感じたとしても迂闊に批判できない。この辺は本当に難しく、このブログは読んでほしい気持ちと読んでほしくない気持ち両方とがある。これまでの内容と完全に矛盾するようなことを言うが、このブログの存在の周知は控えてほしい。

  • はじめに

    管理人のrememberです。この記事では、MBTIの定義の問題はひとまず棚上げします。

    私がMBTIを知ったのは2018年ごろ、はじめはユング心理学から入門し、やがてMBTIを知るようになりました。私はこの性格類型論の深遠さに魅了され、人間への様々な考察を続け、今に至っています。
    MBTIは科学的なエビデンスに欠けるという批判はあれど、この類型論によりそれまで不確かだった自己の輪郭がつかめたというのは実感としてあるし、人間理解の一助として大いに役立つものだと考えています。そして何より、このMBTIがなければ絶対に繋がりえなかったような人たちとも交流することができたことが、自分にとって類い稀な経験となりました。そこで行われた対話は自分の財産となっています。私はこの類型論に想い入れがあります。

    【ブログ発足の経緯】
    今でこそMBTIは就職活動にさえ利用されるほど知名度が上がった存在になりましたが、おそらく2022年以前までは今ほどの認知度はなく、知ってる人だけでひっそりとやっていたような空気感だったと思います(2018年のころは誰も公式の話などしていませんでした。少なくとも私の周りでは、ですが)。
    MBTIはユング心理学をベースにしている類型論であり、有名になる以前は心理学や人文学などの学問的見地から考察される人がいたように思います…いや、正確に言えば、何かしらの学問を修めたであろうー一定の知的水準を満たしているー人たちが、少なからずそこにいて、人間を考察していたように思います。

    ところが、Xにおけるインフルエンサーの情報発信や、MBTI自体の知名度の向上に伴ってユーザー層がZ世代にまで拡大したことにより、学問的見地からの考察はほぼほぼ失われてしまったように感じます。インフルエンサーにしてもZ世代にしても、彼らの情報源は身の回りの友達や異性の交際相手であり、その対人関係の中でどう円滑に立ち回るか、相手が求めているのは何でどう応えるのが正解であるのか。そういったコミュニケーションの問題解決が主眼となっているように思います(MBTIに恋愛の話を絡めればほぼウケるような状況です)。

    また、16Personalitiesのキャラクターを使った二次創作やファンアートも増大しました。これらの作品への考察(例えばこれらのキャラクターがユーザーの自意識に及ぼす影響、など)は多岐に渡るのでここではすべてを述べませんが、各タイプの特徴を端的に記号化した概念は強力なコンテキストを有しており、ある一枚絵の背景にキャラを適当に配置しただけで、受け手側はそこに何かしらのコンテキストを見出してしまう認知プロセスがあるように思います。Xでは16Perのキャラクターをアイコンに設定しているアカウントもよく見かけますが、アイコンには本人の自意識が少なからず反映したものになっているでしょう。自分の自意識が宿ったキャラクターが描かれる二次創作は、通常の創作とは異なる認知作用があるのではないでしょうか。

    そういう創作やファンアートを否定するわけではありませんが、ネタやエンタメとしてしか消費されていないことが口惜しいし、作品としても、いや作品と呼んでいいのかと思うくらい稚拙な表現を多く見ます。「実録」と称して日常の何気ない一コマを切り取ったような漫画もよく散見させられますが、基本の起承転結の体を成していない作品が大半であり(応用的にあえてハズシをしているというわけではない)、キャラクターが持つコンテキストに依存しきったものだと言えると思います。また本当に「実録」なのかも疑問です。

    あるあるネタもよく見られます。実際の人間を観察した結果の産物であるなら、類似現象の把握は人間理解の知見として有益かと思いますが、いかに面白いことを言えるかの大喜利と化している面もあり、そこには「想像」が組み込まれてしまっています。想像力は人間の素晴らしい能力であることに異論はありませんが、「誤り」が入り込む可能性があることに自覚的でなければ、現実と乖離していることに気付くことは難しいでしょう。多少の想像力があれば「それっぽい」ことは容易く言えます。しかしその「それっぽい」ものは、確かに実在している私たちを本当に的確に捉えているものなのでしょうか?

    焼き直しの考察を量産するアカウントも見受けられます。(いいねがたくさん付く)同じようなことを言い続ける動機は承認欲に他なりません。人口が増えたことによって、MBTIは承認欲を満たすことができるようになりました。これがZ世代であれば「かわいいもんだな」と、看過するのが大人としての態度だと自分に言い聞かせることも可能ですが、青年期半ばを過ぎた人間がやっているとすると、さすがに誤った活用方法だと思わざるを得ません。

    自己の存在基盤を掘り返したり、普遍的な人間理解を試みようとする者はマイノリティになり、MBTIは青年たちー或いははもう青年期の終焉に差しかかった者たちーの承認のための食い物にされてしまった。これが今現在、私の眼に映っている世界です。この類型論に魅了された者として失意の念を禁じえません。



    【このブログの理念】
    私がこのブログで何をしたいのか、つまりはこのブログの理念を以下に述べます。その前に、文章を簡便にするべく、勝手ではありますが用語の定義をします。

    「タイピング」
    MBTIの理論・フレームワークを用いて、対象となる人物の心理的機序や動機を考察・洞察すること。この考察・洞察に、タイプを確定させる最終プロセスが含まれているかは問題としない。

    「非実在青年」
    想像力によって作られた、実在しない、或いは実在しているかどうかわからない人間。

    私が考えている問題点は以下2点。

    1.MBTIが人間関係を攻略するための道具と化している
    2.非実在青年が考察の対象となっている

    これらの問題に対し、それぞれ以下を対抗案とし、このブログの理念とします。

    1.タイピングを人間関係攻略のためのペルソナ形成に資することなく、青年期の課題(自分は何者であるのか)解決に向けて活用すること。すでに課題が解決している者は、課題を抱えている者の解決の手助けとなるようにMBTIを活用すること。

    2.実在する人間をタイピング対象とすること。しかし、タイピング内容が青年期の課題解決に十分寄与できるものであれば、非実在青年でもタイピング可とする。





    自分が何者なのか、この世界にどうアプローチしていけばいいのか、わからない。MBTIがそのような想いを抱く人たちのよすがとなるよう、このブログを運営していければいいと思います。それではよろしくお願いいたします。