2025年現在において、SNS上でのMBTIの情報は錯綜しきっていると思う。バズりの置きどころを心得たインフルエンサーの拡散性が高いだけで毒にも薬にもならないタイプ考察もさることながら、ネットの集合知から形成したイメージ先行の山勘による考察、インプレッションの稼ぎどころとここぞとばかりにタイムラインで流行っているネットミームにかこつけて行うネタ投稿、批判を恐れて前もって「偏見」と付けて発信する個人的印象論、名乗りさえすれば誰でも名乗れる自称講師による魔改造キメラ理論、卓越したセルフブランディング能力により理想の自己像を演出するメンター気取りの人間、16Personalitiesのキャラクターのカプ厨イラストや恋愛の相性論に熱狂するが実際には恋に恋しているだけの恋愛の土俵には立てていない者、SNS上のアバターとして16Perのキャラを選択するも完全にキャラになり切れず時折垣間見える本人の地から感じる違和感、早まった判断でミスタイプを犯し当人も内心違和感に気づいているがフォロワーからそのタイプとして認知されてしまっているので引っ込みがつかなくなっている者、自己理解を放棄して自認タイプを不問とする安全地帯に居座りながら人間観察を行う者、エトセトラエトセトラと、例を挙げれば枚挙にいとまがないというか、自分でも何を言っているのかよく分からなくなってきたのでこの辺りで止めるが、とにかく、玉石混交とは言うが、あまりにも俗世的な扱われ方をされ過ぎて、玉より石の方が大分多くないか、という所感である。ちょっと自分の空想が入っている気がしなくもないが(これらのMBTI活用はひとつの「波」のように感じていて、個人の力ではもうどうしようもなくなってきているように思う)。
このような情報源が無数にあり増殖をし続ける煩雑した状況下では、公式のMBTI協会の信頼度は相対的に向上しているのかもしれない。一体どこの情報が正しいのか路頭に迷うユーザーが出てきてもおかしくないからだ。しかしながら公式は公式でカルトみたいだとか情弱ビジネスであるなどの批判も散見される。あと公式を受講して一度はタイプを決めたものの、その後に自認タイプを変更しているアカウントが存在したことがある。このことから公式さえ受講すれば自認タイプがはっきりと決まるというわけでもあるまい。公式に依拠した者は他流派への排他的姿勢が見られるが、排他の対象は自分の批判対象と重なるところがあり、僕は彼らと正しさの基準が異なっているだけで本質的には似たような存在だとも思うが、後に説明するMBTIの応用的活用の都合上相互理解は難しい存在となる。
「一体何が正しいのか」というのはいかにも判断型の人間―つまりJだが―の在り方である。僕も判断型の人間なのでここで何かしらの正しさの基準を示したいという思惑がある。結論から言ってしまえば自分の見立てが正しいと思っているが、これは自分の主観的認知を第一の基準とした独善的な価値観というわけではない。一体どういうことなのか説明したいところだが、何かと準備がいる。差し当たっては、当ブログ及び管理人が一体何を基準にしてMBTIを語っているのか、どういった道程を辿ってきたかの説明をしたいと思う。
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はじめにでも書いたが、僕は2018年のころにユング心理学を知ったがこれは河合隼雄氏のユング入門書に依る。河合氏の文章は易しい文体で、僕のような頭があまり良くない人間でも最後まで読むことができたので、本を読む習慣がない人にも勧めることができる著者でもある。ユングの思想は夢や無意識、イメージが中核としてあり、マンダラの研究や錬金術、あと布置とかいう色々な現象を星座に見立てるような考えもあったかな、そういうオカルトに傾倒した面はあるにせよ(あるENTJは「科学が発達していない時代故に暴走した感はある」と評していた)、ご存じタイプ論を始め心理機能や集合的無意識などの神秘性を感じる概念も多々あり、またユング自身東洋思想を深めていたようだが、ユング心理学全般に部分よりも全体の調和を重視するかのような東洋的人間観が漂っているようにも感じて、西洋的及び科学的態度にうまく馴染めない自分の感性にもよくフィットした。ユングの恩師に当たるフロイトにも学ぶべきところはあり、特に防衛機制は一時期夢中になって調べたほどだが、いささか断定的なニュアンスを感じるところもあり、フロイトよりユングの方に親しみやすさを感じた。
言うまでもないことだが、ユングが提唱した概念の中で僕が最も惹かれたのはタイプ論とそれに付随する心理機能である。心理機能は近似概念をまとめて放り込めるバケツのようなものだと僕は理解しているが、一つの機能を「外/内」で二分し、対となる機能をシーソーのような関係に落とし込んだのが見事である。外向的思考機能が活発に作用している人間ほど、内向的感情機能が脆弱になるということは、二つの機能を(理論上)持っていない僕でさえも、かなり直観的に理解することができた(ここに関しては「軸」という表現をするユーザーも見受けられる)。それぞれの心理機能を主機能にした8つのタイプは(ユングが提唱したタイプ数は8である)、各心理機能を理解すれば容易に存在を認識することができたし、「こういう人たちは確かにいる」と思えたことがすごかった。自分の主機能に関しては内向直観の説明「心象の世界をさまよい歩く」という記述で一発でわかってしまった。この時20代後半であったが、それまでの人生本当にそういうことしかしてこなかったのである。
古今東西の神話に共通して現れるイメージの元型という概念も興味深く、これは派生形のMBTIの各タイプ像も似たようなものなのではないだろうか。ESTJは軍人、INFJならシャーマンやイタコってところか。これらの元型に合致する人間が確かに太古から存在していたと思う。元型の一つとして老賢者(オールドワイズマン)という、円熟した知性と哲学を持ち物語の登場人物らを成長へと導く父性的存在があるが、晩年のユングの肖像はまさに老賢者たる風貌をしていると思う。あとこの老賢者、自分は10代のころテレビゲームのRPGをよく嗜んだが、剣と魔法を扱う中世の世界でこの老賢者に匹敵するキャラクターは偏在していた。

河合氏の入門書に書かれてあったことだと思うがユングは内向直観型の人間であるという評があり、そうだろうなと自分も思う。ユングのもとに集った人間たちも内向直観型が多かったらしい。自分も内向直観の人間故に、ユングが提唱した集合的無意識や元型論にも感覚的直観的理解が容易くできたのだと思う。
というようなことを書いているが、実のところ僕はユングに関しては河合氏の著作を介してでしか知らず、ユング当人の著作はほとんど読んでいない。唯一読んだことがあるのはみすず書房刊行の「タイプ論」で、タイトルから期待できる通りより本格的な類型論の理解を臨んで読み始めたのだが、あまりにも難解かつタイプや心理機能の話がいつまでたっても現れないという内容だったので、途中で投げてしまった。河合氏の入門書で満足してしまったというのもあり、本人の著作にそれ以上踏み込もうとは思わなかった。河合氏の紹介ででしかユングを知れていないので、実際のところのユングのパーソナリティに近づけていない可能性もある。青土社刊行の「ユングをめぐる女性たち」は読んだが、それによればユングは女性から理解されユング自身もまた女性を理解する才能があったらしい。自分のクライアントと愛人関係を結んでしまっているが、妻のエンマ・ユングはこれを公認していたようである。
余談ではあるが、漫画家の赤塚不二夫も似たようなエピソードがある。赤塚は二度結婚しているが、二回目の結婚の保証人を前妻が受け持っている。
当記事を書くにあたりユングの女性遍歴を調べていたところ、精神科医の斎藤環氏による批判(最後の方) を見つけたのだが、本人の感情がだだ洩れの文章であり、斎藤氏のジェラシー込みの評論という感は否めない。ここに書かれてあるユングの諸所のエピソードが事実であったとしても、もっとフラットな語り口での批判は当然存在し得るだろうし、意訳はユングの聖職者然としたイメージを上書きするかのように世俗感を強調した恣意的なものに見える。まあ「ちょっと羨望のこもったイヤミを言わせてもらえるなら」とあるから自覚はあるのだと思う。ただこういったエピソード抜きにユングを「魂の医者」呼ばわりするのは神格化だし、こういう指摘も必要なのかもしれない。先述の老賢者の風貌云々も神格化にあたってしまうだろう。ガンジーなんかも聖人扱いされているが、禁欲主義を打ち立てたのにもかかわらず晩年は裸の女性とベットで寝ていたなんてエピソードもある。ガンジーもユングも一人の人間なのだ。
閑話休題。そうした読書体験を経て覚えたユング関連のワードをインターネットで検索して、たどり着いたのが「MBTI性格タイプ論の視点から世界を覗こう」という個人が制作したサイトだった(以下「覗こう」と略記する)。MBTIの概要と理論を紹介しているサイトであったが、とにかく一つ一つの説明が神懸かり的な完成度をほこっており、ユングを知った時以上の衝撃があった。どこかのタイプの説明で「800年後の地球においては」みたいな表現があり、通常であればただのスピッた人間だろうと看過するところだが、これほど神秘的なテキストを目の当たりにすると、本当に何か常人には見えないものが見えているのではないかと感じられ、一体どういう人生経験を経たらこういう人間観を持てるようになるのかと思った。もちろんその人間観はMBTIの理論を土台にしたものだが、テキストにはサイト制作者の熱意があふれているし、ただMBTIの理論を承認欲しさで紹介しているわけではないことは明白で、内発的な動機でこれほどのテキストを書ける情熱を持つ製作者の存在に感銘を受けた。とにかく僕は「覗こう」のテキストを端から端まで読み、(「覗こう」で紹介されている)MBTIをインストールした。ユングの8類型は優勢機能と劣等機能にしか着目していないものだったが、16類型に拡張したMBTIは優勢と劣等の間にある2つの機能も考慮したもので、各タイプが外向と内向を反転しながら使用する心理機能のフローは、各心理機能の定義と機能の強さ(成熟度)を照らし合わせながら解釈すると、行動原理の理由づけにかなりの部分で符合するものがあると感じ、革新的な類型論だと思った。ユングのタイプ論の紹介で「こういう人たちは確かにいる」と書いたが、MBTIを知ったことでさらにその気持ちが強まった。というより、この16タイプに分類できるような人たちがいることを自分は以前からなんとなく知っていて、MBTIによってその「なんとなく」の輪郭がはっきりとしてしまった、という感じだろうか。
現在このサイトは閉鎖しているが、wiki、或いはアーカイブに保存されたページでテキストを参照することができる。アーカイブに保存されたトップページを見ると、サイト設立は2015年のようである。「2015年の時点では、日本においては、MBTIの認知度は低いようですが」とある。多分ではあるがこの2015年を皮切りにして「覗こう」を元にMBTIを知ったものがふつふつと湧きはじめ、X(当時はTwitterだったが)で徐々にクラスタが自然と形成されていったように思われる。
このサイトに感化された人間はやはり僕以外にもいるようである。ブログを一つ見つけたので紹介しておく。
僕がTwiterを始めたのも2018年のあたりだ。最初はMBTIでのつながりを目的にしてはいなかったが、「覗こう」を知ったあたりでタイプをbioに載せるようになって、同様のことをしているアカウントをフォローしていった。「覗こう」が2015年に設立されていたとはいえまだMBTIは世間に全然浸透していなかった。その内DiscordでMBTIのサーバーを設立する者も出始め、そこでユーザー同士で会話をしたりしていた(まだTwitterにスペースが実装されていなかった頃の話である)。
そんな風にTwitterを使っているうちに、数人の強烈な個性を持ったユーザーと出会った。彼らに共通していたのは、MBTIのフレームに自分独自の哲学を組み込んで、どこのサイトにも書籍にも載っていない考察を発信していたことである。彼らの言っていることすべてに賛同したり理解できていたわけではないが、直観的に納得できるところの方がかなり多く、一体どうやったらそのような認識に至れるのか、まったくもって不可解だった。大半のユーザーが自認タイプの真理らしい真理を掴みかねている中で、彼らは理由を添えてはっきりとタイピングしていたし、それが恐ろしいまでに観察眼に富んだ内容だったので、仰天してしまったのである。苛烈なパーソナリティを携えていたことも共通項で、手厳しいこともかなり言われたが、自分の存在のヌルさを実感できた本当に貴重な経験だったと思う。彼らとの交流で新しいMBTIが「拓けた」と言ってもよく、特定タイプへのイメージの「刷新」が起こったことは、僕にとって特別な意味経験だった。彼らの影響により、どうやら各タイプにはどこにも書かれていないような特徴があるらしい、と僕は思うようになり、自分もそれらを見つけていこうと感化され、今に至るのである。これらの交流が起こったのが2019、2020年あたりの話になる。
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以上の話を踏まえると、僕のMBTIは以下の4つの要素で構成されていることになる。
- 河合隼雄氏のユング関連の書籍
- 「覗こう」のテキスト
- ユーザーとの交流
- 自分独自の二次的理解
4は3の影響下によるところが大きい。そして当ブログでは、この二次的理解をMBTIの応用的活用法として推奨する立場をとる。なぜならこの応用的活用には、その応用する者の学習の軌跡や、認知能力、および世界観構成が反映されたもので、大変面白いからだ(言ってみれば「覗こう」もまた応用的活用の産物だった)。定義を元に結論を出す推論を演繹法と呼ぶが、これによって導き出されるものは既に知っていることなので、当事者にとって情報量が増えていない。応用的活用は帰納法による推論である。帰納法によって新しく見出した発見こそが、当事者の当事者だけの二次的理解となる。その発見がたとえ僕の二次的理解とは異なっていても、個人の学習体験として僕はそれを尊重する…というよりも、充分な観察と熟慮を経た二次的理解は、他者の二次的理解と同様の見解に到達することが決して少なくない。これは僕が他者の二次的理解に触れ、そのような経験を血肉にしているからこそ言えることだ。この理念には確信がある。
理由を付けた他者のタイピングも応用的活用の一環に当たる。なんとなくの当て勘でタイピングするのは容易いが、根拠を添えるとなると独自の哲学が必要になる。また第三者のタイピングはコミュニケーション上の問題(自認タイプを相手からどう思われるか、どう思わせたいかなど)が発生しないので、タイプへの純粋な議論ができるはずだ。優れたタイピングはタイピングされる者の今まで知り得なかった一面を知ることができる、そしてそれはタイピングする者のフィルターを通した結果なので、タイピングする者の一面でもあるのだ。できるだけ実在の人間をタイピングするのが望ましいがこれは難しいので、最初は二次元のキャラクターでも良いと思う。その際は非実在青年であることを念頭に置き、リアリティに欠ける誇張された表現は捨象する必要がある。基本的には動機に着目するのが良いと思う。
ただあまりにも独自の考察を深め、誰とも共感できない個人的イメージを強化しているのも、虚空に向けて独りブツブツと発言しているようで少し危なく感じる。適宜他者からのフィードバックは必要だろう。
こういう応用的活用は一次理論を重視するユーザーと軋轢が発生するかもしれない。そもそもそういうユーザーはこのブログの理念自体をMBTIを歪めるものとして共感はしないと思う。公式に依拠する者から「自分のタイプは自分にしか分からない」という言を聞くことがあるが、その観点から言えば先に述べた他者のタイピングはナンセンスな話なのだ。ただこの理屈は、公式受講者を特権的な立場に置く作用があると思うし、自分より高度でより発達した精神構造を持つ人間を想定できていないし(上位の人間からは容易に見透かされるものだ)、他人の自我を無視した閉塞感のある考え方だと思うし、単に自分を知られたくないことの言い換えのようにも思う。他者の認知を通した自己というのも一つの自己であり、「自分のタイプは自分にしか分からない」という理屈は他者の認知を棄却している。ここには他者軽視がある。当ブログはこの考え方には対抗する存在である。また僕の応用的活用は大分批判的な内容も含まれるので、自己批判できない人間からも歓迎されないと思う。精神が未熟だとクリティカルな批判に耐えられない。耳が痛い批判から自我を守る時に出てくる言葉が「それはタイプとは関係なくその人個人の問題」だ。この言葉が出た後に何がタイプに関係して何が関係しないのかが議論されているのを見たことがないので、お茶を濁す以上の意義はないと思う。僕はそういう人たちへわざわざ角が立たないように配慮した表現はしたくない。元々このブログは昨今のMBTIの扱われ方が気に入らな過ぎて始めたところがあるのだから。
ただ、僕は他人へ発破をかける気質がある人間だと思うし、そういう意志を持つ者が何も考えず過度な批判をしてしまうと、下手するとマインドコントロールを招く結果にもなりかねない。自分の影響力を過信していると思われるかもしれないが、はっきり言ってしまえば、MBTIをインストールした人間相手に限ってだが、それくらいのことはできてしまう程度の二次的理解はしていると思う。ただそういうことはあまりよろしくないと思うので、表現の調整は都度行っていくと思う。ここは僕の内向判断と外向判断のジレンマでもある。
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公式と16Personalitiesにも言及しておく。先に述べた自分のMBTIの構成の通り、僕は公式と冠せられた何某かから特段の影響を受けていない。公式の知名度が上がる以前に自己をタイピングできてしまったので、特にお世話になる必要がなかったのである。そういう自分からすると公式に特別なブランド力は感じておらず、これは自分と同じような道程を踏んだ人も同じ認識でいるのではないか思う。公式のテキストを読みはしたが大体が既知の内容で、取り立てて認識の更新は起こらなかった。言ってみればそれまでの自分の意味経験、学習内容に優るものではなかったのである。といっても公式のテキストは僕がインストールした「覗こう」の内容と大枠は変わらないので、そこまで異論があるというわけではない。ただいくつか言わせてもらうと、公式は第三機能の外向と内向の意識の方向を不問としているが、なぜそうしているのかの説明がどこにも書かれていなかった。特段そうする理由がなければ、外向と内向を交互に使用するフローを採用した方が良いと思う(これは第二-第三機能間におけるジレンマという観点から述べているのだが、詳細は別記事にて書く予定)。あと8つの機能に関しては「心理機能」という名称で定着していると思うが、公式は「心的機能」となっている。名称など何でもいいと思うが、公式のテキストではそれぞれの機能の説明に乏しく、これらに関しては明らかに「覗こう」やその他諸々のサイトの方が充実した内容になっている。この状況で「心的機能」という表現を用いるのは、当人が公式に依拠している立場であることを示す以上の意味はない。
テキストにだけ言及しているが実際の受講は講師によるセッションというのがある。これに関しては「やってもないのになぜ批判できるのか」という意見にはグゥの音も出ないので、特に言えることはない。ただ、これは慎重に発言したいところだが、公式の受講は費用と時間がかかり、対価が発生する以上サンクコストのバイアスがかかる可能性が否定できない。公式は間違っているという意見を認めてしまうと、受講した自分の経験も間違いとなり、支払った対価も無駄ということになる。そうは思いたくないから余計に公式の価値を強化し、排斥的になる。このスパイラルは結構笑えない状況だ。体験そのものに価値が見いだせていれば別だが、タイピングの正しさの保証を求めている場合は…特に何の対価もなしに自己をタイピングできてしまった僕はそう思ってしまう。まあある程度の判断力が身についた今だからこそこういうことが言えるのだが。自分が20歳前後の時に今のような状況下であれば、自分もまた公式に資金と時間を費やしていたと思うのだ。
16perに関しては、これも色々とややこしい状況下にあり記述するのが難しいが、2025年の現在においては16perのキャッチーなアイコンがZ世代から創作のネタとしてウケまくり、各タイプの非実在青年化の加速に寄与していることは否めない。じゃあ僕は16perに批判的な立場かと言えば、あんまりそうではない。16perは2011年から存在するようだが、記憶をたどれば2018年のころ、自認タイプを検討するうえで自分は16perの診断結果を参考にしたからだ。別に16perの設問の出来が悪いとも思わないし、ここでの診断結果がまったくのデタラメだとも思わない。「キャラクターとして誇張して描かれている」という批判を見たことがあるが、本当にそうだろうか?各タイプの説明文を見ても、「[任意の大物職業]に俺はなる!」みたいな人物は描かれていないし、紹介されている各タイプの著名人はどれも実在の人物でアニメキャラはどこにもいない。キャラクターとして誇張させているのはむしろユーザーの方である(NTを秘密結社に集う人間に見立てたりとかな)。
じゃあZ世代が批判対象となるかと言えばこれも違う。なんかこうなっちゃうのはもう仕方がないことだと思うのだ。MBTIに限らずパーソナリティに関する記述は大体がそうだと思うが、判断力が養われていないうちは説明文からの逆算による自己理解が起こる。MBTIは精度が高い類型論だと思うし、逆算が必ず問題を含んでいるというわけでもないが、理想の自己像を強く持つ人間はいるもので、その辺りに自覚的でないと容易に誤ったタイプを自認として選択してしまう(個人的所感としてはENTPへのミスタイプが多いと思う。知的に皮肉を言うキャラでかっこいいしね。これはもう通過儀礼のようなものなのではないか)。ただタイピングをミスっているだけなら本人の問題でしかないが、SNSの発達によって正確な自己理解をしていない者が正確でない自己イメージを世界に投入できるようになって、他者のタイプ認識にも影響を及ぼすようになった。それが今なんじゃないだろうか。個人サイトや匿名掲示板しかなければ今のような流れにはなっていないだろう。
結局のところ僕はMBTIが青年期の課題解決としてではなく、各タイプがなりきりのガワとして消費され非実在性が加速してゆく現象に辟易している(少なくとも僕はそういう現象があるように認識している)。そういうムーヴメントを積極的に起こそうとする者が批判対象になる。真剣にやろうとしている人でも論争までして意思表明する人はそういないから、そういう人も結局エンタメの波に飲まれて黙殺する。「エンタメとして楽しむことの何が悪い」という意見もあるだろう。そういった人たちはプロフィールに「エンタメ勢」と標榜していることが多いと思うが、この行為の狙いはいい加減なことを言ったときに真剣に利用しているユーザーから批判が起こることを防ぐことにある。彼らは真剣になることから逃げているだけである。もっともMBTI自体がある種の逃避というか、現実世界からのセーフティネットとして機能していた時期もあったと思うが、自分のリアルな体験にそれなりに根差して省みていたと思う。けど今はそうじゃなくなってる。特に問題なく現実社会に適応している人間までも活用するようになった。だからタイプのペルソナ運用もまかり通ってしまう。
まあ公式だろうが16perだろうが、それが真摯な自己理解に活かせるのであればそれはそれで構わないが、最終的にはメタ認知を捨てきった状況での腹から出た言動こそが判断材料になると思う。猫も杓子もポリコレまみれでどうやって本気になれっていうんだと自分で思うが、このブログがそういう空気に少しでも対抗できる土壌生成に資することを願う。現実社会ベースのコミュニケーションルールの一切を殺し、自己認識の甘いミスタイプ者を晒し上げ、互いの心理的矛盾を突き合うある意味で地獄のような地平こそが僕にとってのユートピアなのだ。なんつってな(申し遅れましたが当方INFJです)。
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色々書いたが、記憶の美化というか、ごく個人的な体験をコミュニティのありふれた現象にまで一般化した記述をしてしまったかもしれない。白状すれば僕自身ネタのような投稿はしていた。ただ以前と空気は確実に変わっちゃってるし、そういう空気に飲まれてタイプ名を名乗りたくないなんてのは、この類型論に助けられた者として嫌すぎる。ただこういう問題意識もどれほど他人と共有できるのかわからない。何か思うことがあればコメントしていただければ幸いです。判断型の人間の在り方はとかく分断を生みがちで、このブログもまたそういう気質を孕んでいると思います。ただ性格なんて変えられないのでしょうがないです。
誤った自己認識のままビジネス展開を始めてしまった者もいる。僕にとってはまったくもって忌々しい連中だが、そいつらだって自分の人生賭けてやってるんだし、違和感を感じたとしても迂闊に批判できない。この辺は本当に難しく、このブログは読んでほしい気持ちと読んでほしくない気持ち両方とがある。これまでの内容と完全に矛盾するようなことを言うが、このブログの存在の周知は控えてほしい。


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